区役所から米寿のお祝いを貰い、その買い物券で、佃煮を買うのに使うってしまおうとあれもこれもと買いましたら、買い物券の額をオーバして、なけなしの自腹を使い果たしました。もう、やはり高齢者です。
高齢者になった私のその生き方は・・・ふと、「葉隠」の一節を思い出しました。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり。」
若い頃はこの言葉を剣の秘伝のように思いすましていましたが、近頃、ママに言われたのです。
「あなたは私が生きてるうちに死んで下さい。私は自分の身体のことはよく分かっています。 私はあと五年ですね。だから、あなたはあと四年で死んで下さい。」
生き様を教えられましたよ。さすがママだよ。他人さまが「そんなことを言ってくれる奥さんなんて、今時、どこにもいないよ。素敵な奥さんだよ。」と言ってくれました。
私は四年では、切腹以外では、死ねません。
人生とは、上下二本の道を歩いてるようなもの。上の道は世間を義理人情だけでいい。もう一つの下の道は・・・やり遂げられないとしても、人目に付かなくても、死ぬまでやり遂げたい願いを抱いてあちら側に行くこと。
私は、男親を知らず、泣き笑いもせず、人に怒り手を上げず、女も知らず、軍隊には入りました。
では、また、勉強が遅れるので。息子よ、頑張れよ。
2012年3月7日水曜日
フランス語教室
私の通い始めたフランス語教室は、
早稲田大学ハ町堀校。
定員20名。
フランス語学習経験者なら参加可。
初心者向けの教科書使用。
と有り、気楽に籍を置きました。毎週月曜日、昼1時半から3時迄。
でも、この2時間近い間、トイレの近い老人は悩むのです。でも、これは家内の助言で解決しました。
この他にもう一つ困ったことがあるのです。それは、私の机の位置を黒板に向かって左側に決めた事です。エリアナ先生は私の年を知ってからは、よく私に気を使ってくれます。
私の前に座っているだいぶ親しくなった相棒「コパン」は、コーヒー屋で若干焼きもち気味?にこんなことを言うのですよ。
「エリアナ先生は大抵、何時も堀江さんの顔の方をみて話してるよ。」
「それはね、皆さんノートをとるから下ばかり見てるけど僕はノートを取らない主義だからさ。」
先生は右側の人から順に教科書の質問を答えさせていくのですが、私にはことに女性の発音しているフランス語が聞き取れないのです。右側の耳が殆ど聴力がないのです。左だけでも日常生活に困らない程度です。そこで、何時も相棒の彼に聞きます。
「今、何行目?」
先生も私の顔を見て、「貴方の番ですよ。」と目で呼びかけます。でも、何行目か私は分からず違う行の答えを言いかけると、すぐ、先生は私の席迄降りて来てくれます。そしてペンの先で行をおさえ、目を見合わせます。私が答え終わると、 「ビヤン」と手を挙げながら、黒板に解答をかきはじめるのです。86歳の老人だもん!気にしてくれているのだと思います。
そんな先生に1月の最初の授業の時、私はお歳暮のつもりで青柳のケーキを箱に入れ教室に持ち込みました。さて、どう渡すか、、、それが問題。
「ボンジュウール サヴア ヴィアン !」
ドアーを開け、部屋に肩が入ると同時に声が掛かります。生徒が顔を上げ、慌てて叫びます。
「ウイ サヴァ ヴィアン マダム!ボンジュウール」
生徒は、それぞれ、それとなく今日の先生の機嫌がいいぞ。または今日は文法でしぼられぞなどと思っているのです。
教壇に上がった先生はカバンから何やら取り出しました。何やらのプリントの束。それを机の間をぬうように、一人ひとりに渡して歩いてきます。私は机の端に目立つように青柳の包装紙を置き、少し身体を開き待ち構えます。先生はプリントを渡しながら、その紙包みを手にとっています。目が合います。「メルシィー」言葉は要らないのです。こちらも何も言いません。目と指先を開いただけ。
そして先週は新学期前の最後の授業です。今回の贈り物は千挽屋と決めていました。そして私の詩人としてのプライドはその贈り物にフランス語で詩の一行を書き添える事です。これはフランス語としての誤りはあったとしても、この数行の詩は私のフランス文化に対する挑戦なのです。
C' est que
personnes agees
santiment !
C 'est pour Rien
NOBU
早稲田大学ハ町堀校。
定員20名。
フランス語学習経験者なら参加可。
初心者向けの教科書使用。
と有り、気楽に籍を置きました。毎週月曜日、昼1時半から3時迄。
でも、この2時間近い間、トイレの近い老人は悩むのです。でも、これは家内の助言で解決しました。
この他にもう一つ困ったことがあるのです。それは、私の机の位置を黒板に向かって左側に決めた事です。エリアナ先生は私の年を知ってからは、よく私に気を使ってくれます。
私の前に座っているだいぶ親しくなった相棒「コパン」は、コーヒー屋で若干焼きもち気味?にこんなことを言うのですよ。
「エリアナ先生は大抵、何時も堀江さんの顔の方をみて話してるよ。」
「それはね、皆さんノートをとるから下ばかり見てるけど僕はノートを取らない主義だからさ。」
先生は右側の人から順に教科書の質問を答えさせていくのですが、私にはことに女性の発音しているフランス語が聞き取れないのです。右側の耳が殆ど聴力がないのです。左だけでも日常生活に困らない程度です。そこで、何時も相棒の彼に聞きます。
「今、何行目?」
先生も私の顔を見て、「貴方の番ですよ。」と目で呼びかけます。でも、何行目か私は分からず違う行の答えを言いかけると、すぐ、先生は私の席迄降りて来てくれます。そしてペンの先で行をおさえ、目を見合わせます。私が答え終わると、 「ビヤン」と手を挙げながら、黒板に解答をかきはじめるのです。86歳の老人だもん!気にしてくれているのだと思います。
そんな先生に1月の最初の授業の時、私はお歳暮のつもりで青柳のケーキを箱に入れ教室に持ち込みました。さて、どう渡すか、、、それが問題。
「ボンジュウール サヴア ヴィアン !」
ドアーを開け、部屋に肩が入ると同時に声が掛かります。生徒が顔を上げ、慌てて叫びます。
「ウイ サヴァ ヴィアン マダム!ボンジュウール」
生徒は、それぞれ、それとなく今日の先生の機嫌がいいぞ。または今日は文法でしぼられぞなどと思っているのです。
教壇に上がった先生はカバンから何やら取り出しました。何やらのプリントの束。それを机の間をぬうように、一人ひとりに渡して歩いてきます。私は机の端に目立つように青柳の包装紙を置き、少し身体を開き待ち構えます。先生はプリントを渡しながら、その紙包みを手にとっています。目が合います。「メルシィー」言葉は要らないのです。こちらも何も言いません。目と指先を開いただけ。
そして先週は新学期前の最後の授業です。今回の贈り物は千挽屋と決めていました。そして私の詩人としてのプライドはその贈り物にフランス語で詩の一行を書き添える事です。これはフランス語としての誤りはあったとしても、この数行の詩は私のフランス文化に対する挑戦なのです。
C' est que
personnes agees
santiment !
C 'est pour Rien
NOBU
2012年2月23日木曜日
黒船屋の解体工事 その2
私達夫婦が店をもったのは、下町、鉄砲州は隅田川を歩いて10分位の所謂、下町路地裏、3軒長屋にはさまった殆ど人通りのない、夜は明かりの付かない、老人が住む暗い町内でした。
解体工事は進み、看板は取り外され、「The 黒船屋一代」のTheもいらなくなりました。常連の皆様がご覧になったら、なんと、ナントでしょう。
なんとといえば、「ナント」の詩、以前ブログで紹介しましたよね。
今、それを読み返し、その町のグラジュウ―ル 街25番地は私達の当時 隅田川 リーバー サイド バンテアン21と呼ばれた 開発時代を偲ばせます。
ナントに雨が降る
忘れはしない
ナントの空は 心を滅入らせる
私は 往年の若かりし時代
よく 溜め息混りに口を付いて出る
こんな 言葉を 思い出すのですが!
「嗚呼 なんと ね!」
話は変わって今、私はフランス語教室に毎週一回通っています。
まだ半年位になりますが、若い人に交じり、勿論、私が最高齢者86才の初心者。耳もよく聞き取れません(笑)男生徒は3人、殆ど女性が占めます。それでも教室の帰りに他の生徒とお茶を飲みに行く仲になりましたよ。
勉強は人知れず苦労の連続。娘からもらった文法の本を片手に宿題と格闘です。
そして、先日、教室でフランスへの旅行の話になりました。それぞれ皆さん有名な避暑地の方を口にします。
そして私の番です。思いつかないまま、つい口について出た土地名が「ナント」でした。ブランス語教師は女性で、このシャンソンをご存じで、直ぐ、「バルバラの歌っている曲ですね。」と口添えしてくれましたよ。
「マダム、どうか グランジュウル、街25番地にお越しになって下さいませんか!
彼は もう短い命! 貴女に 一目とそれが希みなのです!」
これが私にとりついた「ナント」の地名です。
2012年1月13日金曜日
黒船屋の解体工事
いよいよそれぞれの想いの染み込んだお店の解体工事が始まりました。長い間のようで短くもあった35年間でした。これからの年金生活はつつましく、ひっそりとした日々となります。 ママ
解体工事が始まり、1階はほとんど解体され剥き出しになり、今は電気、水道の整備中です。外に出るにも、階段から靴を履かなければ抜けられません。埃と木屑の山を通り抜けるからです。東京も寒くなり、雪が降るとか。寒いのは苦手だけど、風邪をひかずに元気にフランス語の学校、ヨガと行っています。
解体中の写真を拡大してみるとなかなか素敵。カンウターを少し奥へ引っ込めさせますから、店は少しゆったりするとおもいます。
入口に和風の引き戸が、懐かしい日本を蘇らせるでしょう。
大和は 国のまほろば
たたなずく 大和し うるわし
私が軍に召集された時、障子に陰を落とす松の影を見ながら、
「誰のために 戦争に行くのではない。
この、まほろばの国を護るため。
天皇の為ではない。」
と固く決意したことを思い出しました。
「ザ黒船屋 一代」 「ザ」がなければ、野良猫でも黒猫でも構わない思い出を作った店でした。
みなさん、ありがとう。
マスター
2011年12月3日土曜日
中央区 謎解き宝探しイベント その1

この謎解き宝探しイベントに参加するきっかけは国外にいる娘からのメールで、86才の私の重い腰を立ち上がらせたのでした。
なんでも中央区で宝探しをするイベントがやっているそうで、早速、中央区役所に出かけ、その謎の古地図とパンフレットを手にしました。賞金&賞品総額500万円!!
この謎解きは1stステージと2ndステージの二つがあり、最初のステージを通過しなければ、2ndステージの地図を手に入れることが出来ないのです。
家内の分と2部持ち帰り、家で見てみると、宝の地図には6箇所の宝のありかが記載されています。3つ以上の宝に記載されたキーワードを報告し、正解ならば、2ndステージ用のの宝の地図がもらえますが、6つ正解しないことには賞金の抽選には入りません。
コンサートを控えた忙しい家内を巻き込み、私達、家内と二人のコンビは締め切り数日前に迫ったこの宝探しに出かけることになりました。
歩いて宝を探しに行くのは私。家で考え、行き先を指示するのは家内。アメリリカの娘はインターネットでの謎解きと私の携帯でのナビです。娘の指示は真に正確で、私が迷いどんなに途方に暮れても、まるでビデオ
で見てるように、場所、物を言い当てるのですね。私はその場所に行き、宝箱のキーワードを捜せばよい話。
でも 私のグチを云えば、東京は今、いたるところ工事で行きどまり。ナビを聞く携帯を持つ手も痺れ、そのうち、携帯は電池切れ。ジ エンドです。
私達は中央区の下町の住人なので、隅田川沿いのヒントの隠し何処はすぐひらめくのです。まず出かけたところは佃。
財宝 五「人と田が一体となりし地で力自慢の漁師たちを探すがよい。」
地図を持った人が歩いていますが一人で探しているのは私ぐらいです。人の波を追い、みんなが左に曲がれば左へと歩きますが、娘からの電話でどうも方向が違うよう。佃の波除神社はこんなところのあったのですね。宝探しの人は誰もいず、見つけました宝箱!書かれたキーワードは「オオイナル」です。
宝箱は持ち出されないように紐で結ばれていました。
波除神社には「さし石」と呼ばれる大きな石があり、それを漁師達が力自慢をして持ち上げたのでした。
2011年11月11日金曜日
2011年10月18日火曜日
ワシントン ナショナルギャラリーへ行こうよ! その3

さて そんな事を云ってる暇はありません。多くの人々の立ち止まってる柵の前、ゴッホの自画像です。それもほかの画家と同じように無造作に掛けられておりました。私も傍に寄り、食い入るようにみました。真贋 のことなど云々するつもりなど少しもありません。ゴッホだと思って見入ってるのです。
私も厚塗りの油絵をかきます。金がかかります。パレットに生の絵具を絞り出し筆先に乗せ画面に打ち込んでいきます。鼻の頭も唇も点描で押しきっています。でも、私が自分で気になっているある部分?そこだけが点で押しきれていないのです。
其処は、上部の枠と自画像の頭部のせまいある一点を打ちこむことが出来ないのだったのに違いないと感じ取りました。
何故?それは頭部の頂点ともいえる有る一点が決められない問題が有ったからだと思います。「セザンヌ夫人」の頭部の絵を知ってる方は「ああ!これはまるで、ピカソの立体画と同じではないか。」と唸った筈です。 多分ゴッホもこのことに悩んだ末に其の狭い一画を、其の頭部と枠の或る部分を点描に抑えず、平塗りの平面にして完了させて、筆を擱いてしまった。と私は感じました。
さて、それからまた移動することを余儀なくさせられます。多士済々の絵。よくこれだけの作品を集められたのは、アメリカ大国の財力が物を云っているのでしょうが、でも日本のバブルの絶頂の頃も、或る関西の製紙会社の社長が当時、金に糸目を付けず西欧の絵画を買いあさった話、バブル期が終わり絵の処分を考え、鑑定の結果不幸にも殆ど贋作と言われ、灰にしたとか?よくはしりません。

「赤いチョッキの少年」やっと、おお気に入りのこの絵の前に立つことができました。 この少年をモデルにした同じ構図の絵は4点あるそうです。きくところによると、セザンヌの作品の傑作は殆ど当時大国ロシアに買い込まれたとも聞きます。
マネのコーナーで私にとっては懐かしいリトグラフを見つけました。喪服を着た女「ベルト モリツ」 リトなので、日本でも複製で三種類はみております。でも、このリトでは喪服と云うイメージが湧きませんね。マネのお知り合いの女の子。当時こんな句を作りましたよ。

「喪の花の ライラック手に ベルトモリツ」
其のうち、別のコ-ナーである絵をみつけたのです。もしかしたらこれはミステリアスなお話にこだわる私の妄想なのでしょう。その題名は
「ベルト モリツ」1987年 ペンシルバニアー アメリカ国籍
絵はまさしくマネの描いた喪服の女の1872年の作品です。当時この油絵を描いたアメリカの画学生は、 マネのアトリエに出入りできる裕福なアメリカの好青年モデルをしていたベルト モリツさんも、もしかしたらお互い好感を抱いていた。
彼は、こんな風に 彼女に云った筈です。
「僕にも マネさんと同じポウズで、油絵を描かせて下さい。」
「アメリカに 行きましょう ペンシルバニア 素敵な国ですよ!」
「貧しい生活は決してさせません。」
こんな声が聞こえてくるマネの傍に付き添っていた画学生。でもここで私も我にかえります。
「もし彼女が本当のプロのモデルさんだったら?」
そんな甘いパリ ジェンヌはいるはずがありませんよね。
みなさん、いつもありがとう。また連れ出してください!
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