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2011年3月3日木曜日

ジャズクラブ J 最終回

 狭い階段を降りて地下のドアを開けました。まだ照明も暗くしてあり、右手にカンターが据えられ、その横
に素敵な座席がステージを取り巻くように敷きつめてあります。テーブルも放射線状に配置されています。
 未だ開演前のひと時を、OB会のメンバーはひそひそと、笑い声を交え旧交を温めているようです。もうシニアといわれる年代です。

 さて、私達は?彼女はW大卒のジャズ好き。私はと言われると、千葉の観光ホテルでの住み込みバーテンダー。生まれは神田、実家は世田谷。社会の裏側をすり抜け、明日を放棄した生き方を信条に、鴨川、小湊を拠点に18年。ホテルは観光客対象です。休日など取る暇はありません。

 避暑客の客層は東京の人。この東京の文化に接する喜びが有ります。思わぬ人との出会い。私の師とも云うべき山本蘭村氏の言葉「邂逅のごとく人と逢いたい」素敵な言葉です。生まれ育った土地を離れた人には、殊に想いを深くするのでは。こんな想いは、私が30代の若さですので、50年も昔の話。グローバル化した現代、なんの世迷言!のおじさんですね。
 そんな言葉はもう意味がないよ。何処に誰がいても逢いたいと言えば呼ぶことが出来る時空間の世界にいるんだよ。それより、「ここで逢ったが百年目」と言われた方が怖いですね。

 今日、クラブJにやって来たきっかけは、私の細君がまだ若かりし日の二十歳代にドラムをたたくYさんと同じ会社で仕事をしてたのです。その頃、二十歳年下の彼女と私は千葉で知り合いました。彼女の母方の叔母が千葉の土地の人で、私のいたホテルに女友人と二人で滞在し、その叔母に逢いに行くと云う口実?で夏の終わりの海を眺めに来たのでした。何という風流な!

 でも、避暑客のいなくなった秋口の海辺は淋しいものですよ。滞在客もいないし、恋人同士なら、其れもまたいいでしょうが、浜に出ても、テントを張った茶店も、海の見張り台すら片付けられ、高波に打ち上げられた流木がひっそり砂浜に横たわっているだけ。夕方の日が傾けば、茶店も売店もサッサと店をかたずけて帰ってしまいます。

 そんなお二人に私は声を掛けました。「どうですか、お食事が終わりになったら、海ホタルを見にいきませんか?」私は別に下心が有って誘ったわけではありませんよ。海ホタルは夜の海に行けば何処でも見られると云うわけではありません。私も海ホタルの美しいブルーの色には息を飲むのです。波が白く砕ける瞬間、海ホタルがブルーに輝くのです。そこは、「弁天」と呼ばれる磯、岩場のあるところ。私はお二人を弁天までお連れしましたよ。彼女の友達は月明かりの岩場を何だか怖い、と言ってましたが彼女は何故か怖がる様子は有りませんでした。彼女は今でも夏、弁天に行くのが大好きですね。 

 そんなきっかけで私達二人はフレンドリーな付き合いになったのです。私は上京するたびに、八重洲の地下から電話で会社の彼女に電話をかけました。物覚えの悪い癖に電話番号だけは覚えられました。番号の下4桁が2534。言葉では憚るところなのですが、ダイヤルを指で回すと自然と「二号さんよ」と打てるのです。

 彼女の会社は八重南口の通りを渡った直ぐ近くの大きななビル。でも、彼女は何時も私の待つ地下の千匹屋でまで5分と待たせませんでしたね。そして、彼女はもう一人の友達にも必ず連絡をして、会社が引けてからは何時も3人で遊び歩きました。

 彼女は髪の長い「少女」ではありませんが、私の好きな長い髪を垂らしていました。私の実家は世田谷の明大前。彼女は下町娘で隅田川の傍。会社から15分で歩いて来られる距離。町名など云っても分からないと、彼女の方はお見透しだったのでしょう。

 東京にでて来るのは、月に一回。仕入に行く口実を作り、勿論、本当に上野アメヨコでバーのつまみ、レモンなどを送らせ出張費を稼ぎましたね。私の生活といえば、その千葉の町ではお金を使う場所がないのです。遊びは賭けごとだけのヤクザな環境。給料は安くても、上京する時の懐は結構なものでした。明日を持たない男に貯蓄などの概念がないのです。でも、彼女を知るようになり何かが少しずつ、自分が変わってきてると 意識していました。もしかしたら、これを愛と云えるかも。

 彼女を通して会社の忘年会などを自分のホテルに持ち込み、暮れのセールス競争をトップに持ち込んだこともありましたね。そんな忘年会の席上で、私は彼女に会社の上司ともいえる親しい人達に紹介されたのでした。その人達の中に、今このクラブJでドラムを叩いていらっしゃるYさんがいたのでした。

 イメルダさんと珍しくおとなしく、会場のコーナーに席を取り、ジンリッキーなど飲み、少しずつテンションを上げていくのでした。そんな中、後ろの席は殆ど埋められ、隅の私達の横にも若いカップルが座りイメルダさんがテーブルなどを少し譲り合ったり、団員のメンバーも壇上で音合わせがはじまります。平均70代のシニアの方々で、べ-スの方がほかの人より年上で、聞くところによると最近まで大病でどこか手術を為されていて、これが復帰初めての演奏なのだそうです。紹介が彼のところに回りますと、会場総立ちで声が飛び、拍手、拍手の波。親族、友人、ファンの熱い応援。これが同期会をつづけてこられた宝です。

 ピアノから低音部の音がながれます。管楽器の中央の奏者の左右に二人。その後ろがベースを構えた病み上がりの彼、その横がドラムの彼です。家内の何十年前の同僚ともいえるYさん。イメルダさんはカメラを構え、臆せずシャッターを切り始めましたね。私はジャズを聞くタイプではありませんので、その曲が何であれその音の主題に浸っていられれば充分なのです。イメルダさんみたいにこの曲は有名な曲で、曲名はこれこれで何年代の頃の曲と囁かれても、駄目です。偶にトランペットが音を外したなとか、ピアノの左手が附いていけないなど、そんなことは気にはなりません。皆さんは集まる機会も少なく、ご自分で練習したのは2、3日前に楽器の前にやっと立つただけで、今日なのです、とおっしゃっていました。それから演奏の中頃に交代した管楽器トランペットですよね、

 フィナーレはYさんのドラムソロ「チュニジアの夜」モロッコ外人部隊、あのマレーネ デイトリヒを思い起こさせるこの土地の曲名のドラムソロはジャズ音痴の私にも酔うことが出来たのはラム酒を飲んでいたせいだけではありません。Yさんの四十年昔の私の細君達と パーテイーでドラムを叩き、私が其のころの彼女に招待され、会社の会議室で当時流行った「今 洋子」の唄を彼女がステージで振付をして、歌ってくれた時代を思い出しました。シニアの皆さん、昭和は遠くなりましたね。Yさん、ありがとうございました。

2010年8月20日金曜日

ウィーン旅行より 第2回 ボードレール


 I君とはその後半月以上、お互い音信不通の状態のままになっていましたね。
 其の後、OH、HOW DID IT GO!

 彼と私には、フランスの詩人「ボードレール」に共感関係がありました。私はボードレールの「悪の華」見出しの前書「読者に~」を、W大の文学部にいたもう一人の友人T君に
「これ訳してみないか?卒論に必要なんだ。」
 と持ちかけられ、原稿用紙1枚位ならと、取り組む事にしました。
 単語は辞書を引けば済むけれど、文の脈絡も理解出来ず、単語を並べ睨めっこです。後は自分の頭の中で、詩を作り上げる作業。
 訳詩が有る筈だからと私は神田の古本屋を歩き周りましたよ!立ち読みは、新宿紀伊国屋で何時間でも慣れていましたので、メモを取ることが苦手な私は「記憶する」というより「理解して来る」ことに腐心しましたね。
 でも、其の訳を読んでも、何処がこれが名訳なのか、この中の何処にボードレールが居るのか分かりませんでしたね。ことに、最後の読者に呼びかける語彙の貧しさ、言い回しには唖然とします。
 最後の読者への呼びかけの言葉、

「おお、お前達 この偽善者な読者よ」
  
私の言い回しと並べれば、こうも違います。

「おお!君たち、この猫被りの諸君よ!」 

この様な文体で、私は彼に手渡し凄く喜ばれましたよ。 

 Aimer a loisir   気まぐれな 旅への 誘い
 Aimer et mourir    愛 も 死も
 Au pays qui te ressemble! 其れも 似たような 裏 表 さ


 I君の心の葛藤も、このボードレールのこの詩が物語る何か哀しみが疾走していた筈。
 二百十日の過ぎた秋口の避暑地の海辺、あの海の見張りやぐらも取り外され、海の家もなくなり淋しさは、打ち上げられたあれら大木の虚しさ。I君は江の島の浜辺で、ざわめきの消えた枕木に身を寄せ・・・・
 これも若き日のウェルテルの哀しみの一ぺ―ジ。 

つづく

2010年8月18日水曜日

ウィーン旅行より 第1回 オペラ座とモーツアルト


 ウィーンのオペラ座と楽友協会に私を連れていく?頭の中には毎年のニューイヤーコンサートは、この楽友協会のホールで演奏されると云う聞き覚えがあるだけです。 

 話を聞き始めると、ここオペラ座は、国立歌劇場。モーツアルトのいたころは宮廷歌劇場だったわけで、モーツアルトがウィーンで活躍したのは、200年程前ですね。当時は宮廷楽師としての地位がなければ、貴族、セレブの援助を受けることが難しい階級制度がありました。
 モーツアルトは若い時から、宮廷の大司教コロレド聖職者の、親密な保護が有ったと聞きます。ウィーンでの宮仕えの虚しさ。宮廷音楽に満足することができなくなた彼は不意に故郷のザルツブルグの我が家の部屋で、初めての短調、あの25番のシンフォニーK183を作曲したのでした。

 時代の波は旧交響曲の流れに若さと新しさを求め「疾風怒涛運動交響曲」はウィーンを中心にあの有名な大詩人ゲーテ、「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」が音頭を取ったそう。

 モーツアルトはこのト短調シンフォニーを手に、1773年秋、また宮廷楽師としての職務に戻るのです。この運動は諸国に身をひそめている音楽家も、容易にウイーンに近づかせなくし、あのベートーベンでさえ、モーツアルトのいるウーインには脚を伸ばすことを、躊躇った聞きます。

 私が初めて、このト短調シンフォニーを聞いたきっかけは、戦後の二十歳代青春真っ盛りのころ、小林秀雄が書いたモーツアルトのこの言葉。
モーツアルトの TRITESSE ALLANTE

「悲しみは疾走する 涙は追いつけない」

 此のセリフは、戦後の20歳台の若者の屈折した悩みに、どれほどの衝撃を与えたことか。  
 I君は私の文学、フランス語の唯一の友人で家が下北沢、私は明大前。私達は下北沢の駅でよく落合い古本屋めぐりをしながら、本屋のおやじさんから「此の裏の横町の奥に横光利一先生の家が有るんだよ。」と教えられると、其の通りを通るだけで、胸をときめかせたものです。

 或る時、その彼が下北の駅で別れ際、普段とは別人のように口もきかず、背を向け反対のの出口へ手も振らず去って行きました。 私は非常に腹が立ちましたが、それならそれでと、自分の腹をくくりましたね。

つづく

2010年6月18日金曜日

転校生 最終回

 私も教室を抜け出してきたのか、追い出されてきたのか、分からない気分です。
 運動場に出ました。北野小学校は全校生の数も少くなく、生徒に貸し出せるスポ-ツ用具は殆どありません。野球をする生徒もいません。ミットも、グローブもないのですから。ドッチボールで遊ぶボールがありません。兵隊ごっこするにも、鍔のある制帽がない。靴を履くどころか、草履、わらじ、亦は裸足です。  
 女子が四、五人で遊ぶのはお手玉位。おはじき、ビー玉はあったかな。何しろ、地域の周りには文具店、昔懐かしい駄菓子屋見たいな店一つないところですから。 

 運動場の中央では、六年男子が固まって、白墨で地面に大きな輪を書いて集まっています。私は隅に並んでる鉄棒に手を伸ばし、蹴上がりをしようと思いましたが、ぶらさがる高さの鉄棒がありません。それで、逆上がりから、前方回転、後方回転と色々小技を使い遊び半分に汗をかき始めると、いつの間にか周りに女生徒が私を囲むように、集まっているのです。私は東京の学校では鉄棒は選手でした。
 得意になったわけではないけど、ここで派手な技を見せなければ、と私の肩に届く一番高い鉄棒の前に立ち、「富士下がり」をして見せ、最後に大きく前後に体を振り前方に鉄棒から足をはずして、飛び降りるのです。見た目は派手ですが以外に簡単な技です。でも歓声をあげてくれましたね。

 そんな事を同級生の窓際の仲間が見てたのでしょう。私のところに呼び出しの誘いがきましたね。十人位が二手に分かれ陣取をしてるみたいです。この遊びに入れと云うことなんですが・・・
 陣取りは二手に分かれ、それぞれの隊長を決め、その陣地の隊長を白墨で大きく書いた輪から押しだした方が勝ち。陣地の間には小さい円形が五、六個書かれそれぞれの兵隊が陣地を守り、敵を食い止めるのです。輪から出たら戦死です。そして、最後に敵地に入り込んだ隊長同士の戦いをするわけ、。

 ゲームとしては輪の中から押し出せば終わりですが、それではお互い意味がありませんね。問題はゲームの勝負ではないからです。どちらかがお前にはかなわないと、おもわせなければ、仲間への面子が立たないと云うわけ。番長との対決です。

 私は喧嘩をしたり、人を怒鳴りつけることはしたことがありません。今でも、人生を振り返り、勿論、私から手をだしたことはありませんね。相手に怪我をさせずに、うまく凹ますことが出来るかです。秘策があるのです。 

 相手は陣地で動かず、私の方から、小さな輪を飛び進みこんでくるのを待っています。私は小柄ですが、敏捷で、腰は三枚腰と云われた程、物事の瀬戸際の勝負に強いのです。相手は私が小さい輪から陣地に飛び移る瞬間を、突き出しに来る筈。でも、それでゲームの勝負はついても私をいためつけることにはなりませんね。私もそこでゲームを終わらせたくはありません。 

 先ず、うまく中に飛び込むことにしました。陣地の周りには、小さい歩兵陣がいくつも書かれています。其の中の三か所を踏み台に加速を付け、陣地に近いところから飛び込むとみせて、離れた場所から、飛び込もう。後は入った時に、蹴飛ばされないように、素早く相手の懐に飛び込むこと。
 
 状況は上手く思ったとおり相手と組み合うことができました。ここから、私のとっておきの秘技を出すのです。柔道で言う、寄り戻しに似ているけど、一寸違います。自分では「風車」とも名づけようとも、三船十段の「空気なげ」に憧れていた頃です。どれも相手の力を利用した変則技です。いままで三回ほど使いましたよ。幾分、合気道に似ています。門外不出の技と言われていましたね。私は自分で遊び心で考えた遊び技ですが、言葉で説明は難しいですね。

 相手と組んだら、右に投げると見せかけ左に寄り戻しをかけながら、相手の腰を前に引き落とし気味に相手の身体を浮かせるのです。右へ回りこみ一瞬腰が浮いた瞬間を狙い、風車のようにぐるぐる回すのです。相手の足が宙に浮きながら、風車のようにまわすことができるのです。相手の体を浮かせるように、自分の身体を後ろに後退させながら、右へ右へと、自分も回り込むのです。遠心力で相手の足が地面から離れ、もう身体が水平にに宙に浮き、なすすべもなくなり、そっと、降ろしてやっても暫くは立ちあがれませんよ。立ちあがっつた時は、戦意喪失で、すごすごと引き下がるだけです。

 これで、私は相手を傷つけず、クラス組での力関係のトップに立ったことになります。よく父親が子供を抱き上げて、そら、タカイ高い!と、遊んでる光景は良くみますね。あれは、体力差が違いすぎるから出来るので、私は相手がアスリート系の人は別として、普通の人となら遊びとしては、ひけを取ることはありませんでした。
 長い間こんな詰まらないお話はここで終わらせていただきます。

2010年6月10日木曜日

転校生 第8回

 教室での喧騒は相変わらず、窓際の男子生徒です。
先生が入ってきて、授業が始まり、先生が黒板に向かい、チョークで何か書き始めると、もう勝手なふざけ合い、物を投げる、椅子をガタつかせる、隣の女生徒をからかい始める、女生徒の甲高い笑い声。そろそろ先生の忍耐が切れるころですね。
 先生が教壇の端に立ち、怒鳴ります。
「おい、お前達、そんなにふざけたいなら、教室を出て行きなさい。」
 一瞬彼らも静まりますが、それこそ、待ってましたとばかりゾロゾロ出て行きます。外は初夏の明るい空。女生徒も何となくついでに出て行くと、反対側の生徒も二人、三人と続きます。 
 そして、残るのは級長、女子副級長それに私。
 先生も、何時ものことで驚きもしません。
「お前達も、この時間、外で遊んで来い。」

 もうすぐ夏休みがやってきます。東京に帰れる。うれしい!でも、この頃、私は土曜日の午後は家へ帰ることにしていました。映画を見に行くんだ。デパートのお子様ランチ。母親と一緒に街を歩く楽しみ。
 そして、日曜日の夕方、新宿から八王寺まで中央線に乗るのですが、電車が街の中を走っているところからだんだん何もない夕焼け空を眺めてぽつんと窓の外以外は見回すこの出来ない淋しさ、唯、情けないおもいでしたよ。

 そんな時に、何処で読んだ一茶の言葉か、今でも呟くことが有りますが、こんな言葉です。
「唯 嘆け、汝が 性の拙さを」
こんな言葉を理解してた自分が居た不思議をおまじないみたいに大事にしています。

 八王子から柚木村行きの最終便がでます。それに乗る時間待ちを街の古本屋で何時も時間を調整します。当時私は時計など持たされていなかった筈、でもバスの時刻どおり動くことはできていましたね。
 本屋で買うのは、江戸川乱歩の小説、それから捕り物帳などです。もうその時間は街も薄暗くバス停の車庫の周りだけ明るい電光に照らされている時間です。乗車する人も少なく、お互い見知らぬ人達。多分終点迄乗っているのは私だけ。時間は四、五十分位掛かる筈。多分一人だけで降りて帰る筈。桑畑の中を突き抜ければ
早いのですが、夜はそんなまねができませんよね。農道を大きくりながら少し坂の小道を一目散に家にとびこむのです。

 こんな話は閑話休題です。空になった教室の続きを今度書きます。

つづく

2010年5月26日水曜日

転校生 第7回

 峠のソマ道(杣道)に入ると、日差しが木漏れ日となって、道を長く照らしてくれています。
 はじめのうちは、もの珍しく眺めながら歩くことが出来たのですが、でも何故か背後が怖いのです。鳥も鳴いてはくれません。 先え 先えと足早に歩きます。怖いのです。木の葉のざわめき、あの音。ザワ、ザワと私を追いかける音。私はもうつま先立ちで、逃げ腰に急ぎました。 こんな姿勢でと思うでしょうが、本能的にこの構えが、何時でも身体をよけることが出来るのです。
 
 風がゆするあの音、ザワ、ザワ。木々の悲鳴のように背中に張りついてきます。
 この道には私が悲鳴をあげます。どこかに、崖の斜面を降りられるならと、見回しますが、崖はもう飛び降りるほかは無理。 ザワ、ザワという音はもう背中ではなく頭にかぶさるように追いかけてきます。
 
 私は何処か道が切れるような場所を一心にさがしましたよ。有りましたね、獣道と云ううのかこれが杣道なのか、斜に、ジグザグな斜面、これを降りて柚木村に唯り付くかは、もうどうでもいいのです。 
 中腹までおりると、もう視界が見渡すことができました。 切り開いた斜面に何と畑があるではありませんか。それも桑畑ではなく、野菜畑。男の人が仕事をしています。
 心境としては話が通じるのか、なにか私が異邦人になったみたい、東京から一人で来て、戻る先もわからず、他所の人を窺っている情けない自分。 たかが小一時間の散歩道です。でも子供心に感じた次元の違う場所では時間は関係ありませんでした。
 降りてきた場所は他所の村です。 柚木村は東の方角へ、太陽が昇るほうに歩こう。

つづく

2010年5月22日土曜日

転校生 第6回

 私が喋り出そうとすると・・・窓際の背の高い子が立ち上がります。
「先生、その生徒は、東京から通うのですか?」
先生「いいや、皆と同じこの南多摩郡の土地で、生活し、同じ空気を吸うんだよ。皆、よろしく頼むよ。」
私は、すばやく彼らに頭を下げ「よろしくお願いします。」とだけ言い、自分の席と教えられた最後列の机につきました。その日はなんとなくぽつんと、過ごすだけで終わったのでした。

 数日が過ぎ、私はいつものようにバス停で峠を越えるバスの時間を踏み切り番のおじさんと言葉交わしながらあと一時間をどう過ごそうかぼんやりしていました。
 そこへ私たちの組のあまり目立たない男の子、名前は分かりません、彼が云うのです。
「俺、峠に家があるんだ、峠まで歩こうよ。」誘ってくれたのです。お互い、名前など呼ぶほどの仲ではありません。お前、俺の世界です。でもK君と呼ばれていたようにも思いましたね。 
 私は彼に聞きました。
「何時もなにしているの?」
「野鳥を山に取りに行くんだ。今度の土曜日つれてくよ。」

 峠の中腹まで来ましたがまだこの先が急坂できつい登り坂になります。二人で崖ぎわの道を避け反対側の道路に座り込みました。 
 彼が喋り出しました。
「この峠を俺たちは猿丸峠と云うんだ。この天辺には、色んな鳥が林の上を飛びぬける空の道があるんだぞ。そこを通り抜ける鳥は頭を突っ込んで逃げられなくなるんだ。でも許可を持たない人は、そんなことしたら罰せられるだ。カスミ網を使わなくても、笊と紐さえあれば、ウズラでも野鳥でも採れるんだ。」

 そんな話で時間を潰してもバスは来ません。私は腕時計など持っていなかった筈。急坂を一気にのぼれば峠です。
 彼は峠の水が誰でも飲める所に連れてきて
「ここで水を飲み、前方の山の尾根つたいに降りて行けば、柚木村だよ。」と行ってしまいました。
 峠の道を降りるより近いのは分りますが、一人で飛び込んで行くのには勇気が入ります。でも、もう段取りはできてしまったのです。

つづく

2010年5月10日月曜日

転校生 第5回

 バスは北野車庫から八王子行きの上りです。勿論、バスの停留所は峠までは見当たりませんでしたね。乗りたいお客さんは手を上げさえすれば、バスは何処でも止めて貰えるようでした。

 土地の人には、自家用の車が生活必需品。小型自動車、ダットサン。自転車は村から村へ、農家から農家へ、電話の代わりをつとめる無医村なのです。バスは野猿峠には止まらず、降りの坂を北野京王電車駅まで降りる人は在りません。この駅裏が北野小学校です。

 校門から正面に見える校舎は二階建の木造で、校庭は十五メートル四方位で小さな砂場の背の低い鉄棒がありましたね。所謂僻地の分校かな、と云う感じです。
 教頭に連れられ、先ず教員室で校長先生、担任との挨拶をすませ、二階の教室に引率され、教壇に立たされました。男女共学で、四列で、一列四、五人、両端が男子、真ん中が女子です。 
 制服は勿論、ありません。女子は殆ど着物、男子も三分の一が着物でした。足元は裸足、スリッパ、草鞋。運動靴は私と級長の男子、副級長の女子が履いていました。

 級長が立ち上がります。
「起立、先生に 礼!」生徒「先生、お早う御座います!」
 言葉だけを並べますと、規律の整った整然とした教室に思えますが、殊に、窓際の男子たちは騒ぐは、喋るはで、先生が何云おうと、馬耳東風。 
 それでも、私が挨拶の言葉を喋り出そうとすると・・・・

つづく

2010年4月11日日曜日

転校生 第4回

 「ごはんだよ!」と下のチビが布団をかぶり寝たふりをしてる私を覗きこむように起こしにきます。此の娘は何かと人のことをかまいにきて、夕方、土間のタタキに据え付けられた薪風呂に入っていても、「ぬるくない?」などと、風呂の中を覗きこむのです。 
 姉二人は母親の家事の手伝いに追われ、興味深く目線で私をおいかけますが、口を聞くような機会を避けているように振舞ってくれていました。会話はこちらから何かを頼む時、バスの時間を調べて貰う時、そんなこと以外はこちらの顔を見て、二人して笑いながら逃げてしまいます。
 末娘がわたしの挙動を何かと報告をし、三人姉妹で何が嬉しいのか、首を寄せ合い、笑いが絶えませんでしたね。
       
 今日は私の初めての登校日です。味噌汁が何時もと違い、ケンチン汁でした。鉄鍋が居間の囲炉裏にぶら下げてあり薪の燠火が赤く白い灰からのぞいています。おかずは、お新香さえあればもう十分。お茶碗が大きいのでそれだけでもう食べられません。
 家のおやじさんはもう朝飯を食べ終え、登校の支度も終えて、私を待っているみたいです。一応ランドセルに筆記用具、ノートをぶら下げ、革靴を履いて行こうとしていたら、教頭のおやじさんから、声がとびます。
「運動靴で行きなさい。」続いて手拭を姉さんかぶりにしたおかみさんから声がとびます。「はい、これ、お弁当!」家族に見送られ土間のタタキに揃えてくれた、運動靴を履いて並んで門か出発です。

 南正面に屋根の付いた門があります。家が少し高台にありますので、入口に立つと、柚木村の半分が見渡せます。バス通りにつながる農道が、車一台通れる位の幅で、桑畑の真ん中を通っています。桑畑が何坪か知りませんが、駐在所の二階屋があります。お巡りさんの姿を、見たことが有りません。でも、朝の通学に行くようになると、OL風衣装の娘さんとバス停で一緒になるのです。

 まだ半月、知らない土地で、なんとなく挨拶出来る人、釣り具やのおじさん、家の三人娘の末っ子。駐在のこの姉さん。柚木村にも小学校は在る筈なのに、幸いなことか姿を見た事事がありません。

つづく              

2010年3月30日火曜日

転校生 第3回


 水車が動きはじめると、其処に一人で隠れるようにひっくりかえって居られるほど、私はませた子供ではありませんでした。捜しに来てくれる友達もなく、近所の大人の顔さえも見たこともないわけですから。
        
 しかし、農道から一寸した広場まで出てくると子供でも入れる駄菓子屋みたいな釣り道具屋があるのです。小遣いだけは、母から持たされていましたから地元の子供たちより、いいお客さんだったはず。そのお店に気軽に出入りし、おじさんとも顔見知りになり、買い食い、釣り竿の道具一式を買わされ、赤っぱや、青はや、鮒釣りまで指導をしてもらい、何曜日には、ここで待ち合わせ川釣りに出かける約束さえもできました。

 四月はもう半ば過ぎ。桜も散れば、学校の行事も収まり、私も来月から転校生として、その門をくぐらなければならない筈。東京の学校でも、団体でするスポーツも、野球ですら手を出すことがなかった私。そんな一風変わった男の子が、どんな扱いをされるのか・・・彼らより私は一年留年してきたわけでそれほど不安はありませんでしたね。

つづく

         

2010年3月29日月曜日

転校生 第2回

 この村には水道の設備が有りません。野猿峠の山裾に寄った林を見上げる一画にある農家です。裏に回ると、岩肌から流れ落ちる水をためるように岩を彫り込んだ小さな洞窟が唯一の水源地なのですね。
 周りをセメントで固め、甕を据え柄杓が差しこまれていて、炊事、洗濯もそこで出来るのです。

 家は、山裾ですが幾分高台になっていて、南口正面の門構えに寄りかかって下を見渡せます。桑畑の中央を農道がバス通まで幾分広く伸びていて、後は多摩丘陵にかこまれた寒村。一時期、新聞などで、無医村と取り上げられたことなどがありましたよ。 
 
 この環境に慣れるまで私はまだ今度の学校に登校してはいませんでした。先ず興味を持ったのは、水車小屋です。幅50、60センチ程の小さな小川に掛けられた水車。小屋の中は、臼が四つ据えてあり、臼の上に杵が横棒に垂直に吊るされてあるだけ。人がいるのを見たことがありません。でも、せき止めてある水路の水が流れだすと、小屋の中が、あの杵がガッタン、ガツタンと働きはじめるのです。 

つづく    

2010年3月27日土曜日

転校生 第1回


 南多摩郡 柚木村に私が預けられることになりましたのが小学六年生のときでした。前の尋常小学校に在籍していた時、背が低く整列は先頭が決まりでした。当時も、小学校も中学校も、勿論義務教育です。でも私は進学出来なかった事情を抱えていたのです。 それは、結核。検査にひっかかって、多分、母の希望と私立中学に行かせたかった担任とのなんらかの話合いが 田舎の学校に六学年をもう一年留年させるということになったのです。

 柚木村は殆どが桑畑です。農家は蚕糸 サンシ糸業を営み藁ぶき家の中の二階に、敷きわらの上に桑の葉を
敷きつめ、蚕を育てているのですね。初めての夜は、蚕が桑の葉を食べるその音に、なにを二階で飼っているのか。。。寝付けませんでした。

 昼間人気のない時を見計らって覗いて見ることにしました。二階と云っても階段五、六段の棚、敷き藁が二十枚位を敷きつめたところに桑の葉が盛り上がるように敷きつめてあります。そこで、初めてみたのが白い親指位の芋虫、蚕、カイコです。
 口の周りと云ううか、顔の部分が茶いろの皮で蔽うわれている。四回の脱皮をし成長し、絹糸を吐いて
繭を作るのだそうです。この村、畜蚕チクサンと機織りハタオリで 生業ナリワイの生活をしている寒村なのです。 

 そこの主人が、今度世話になる、北野の小学校の教頭先生です。家族に娘が三人、母親は、おかみさんと云う感じの人でした。

つづく

2010年1月13日水曜日

鴨川


 鴨川駅、バスを降りてから、誰かに付けられていると思った。振り返ることが出来ず、通りを横町に曲がり、浜の方へ行った。やはり付いて来る。浜へ出るのは危険だが、もう人気のない漁師の空き地を滑り下りていた。男は声をかけて来るに違いがない。私はとっさに、浜の傾斜を逆に駆けあがり、石垣を積んだ旅館の庭先に進もうとした。男が石垣を見上げ、「一寸待ちなよ」と凄んで見せた。
 石垣に紅い花が咲いていて急に浪の音を聞いた。バスの中で、私が会って話していた着物姿の意気な女を男は「あねさん」という云い方で、何故か執拗に、根ほりと問いただすのだった。地方では、まだ着物姿が珍しくもない頃の話。

     はまなすや 呼び止められる 恋もせず 
                             ノブ 

2010年1月12日火曜日

貴方の孤独よ 父よ 最終回


 家族が寄り合うことがあっても会話には口を挟む事がない、父と言う言葉。母から父のことは何も聞かされませんでした。

 そんなある日、パパが日本に帰って来る。ママは困惑してるのは明らかです。そして、兄弟、結婚した兄達、皆で話し合いの集まりさえも持つこともありませんでした。Kさんはその後、姿をみせなくなりましたね。もしかしたら、私だけが何も聞かされていなかったのかも。僻みかな。私は良く友人に「俺のところは、まるでカラマゾフの兄弟だからね」と幾分得意げの喋ったりしたもんです。

 パパも自分が買って与えた家なのだからと、戻るのは当たり前の話。でも三十何年、家族と別れ別れの生活を思う時、デラシネ 祖国喪失者の感慨に忸怩たる気持ちが有った筈です。

 男には外出から家に入る時、敷居が高いという意識が有るものですから。昔から「女、三界に家なし」との諺もありますが、男の孤独には、この家とは自分の人生との幻影を見ていたのかも。

 父は確かに家に帰ってきましたよ。私と母と食事のテーブルを囲んだ時の記憶にこんな事がありましたね。
皿に盛られた赤いトマトを、何気なく「そのトマト」と口にし、食べかけた時、父が「それはトマトじゃないトメイトだ」と窘められました。其の日が家にいた幾日目かわかませんが、やっぱり母と、私だけがいたときです。二人は奥の間で口論になり、父が母を中廊下迄引きずるように連れ出してきました。勿論私は止めに入ったつもりが父の足を引っ掛け、父は転んでしまったのです。その時はそれで終わりましたが、後になると、父は兄達に言いふらすのです。「ノブが私を足で蹴飛ばしやがって。俺は転んだんだ。」と。弁解はできません、事実ですから。でもパパが其の時私には老人なのだと、気を使う余裕がありませんでした。今、自分が歳をとり、歳をとらなければ実感できないものだと分かるようになりました。

 ママはパパに「私は、貴方と一緒には住めない。離婚してくれ」と。もつれ話から口論になったのです。母との過去の縺れに付いては一切聞かされていませんが、当時ママが就寝時には枕の下に、夫人用コルトを枕の下に偲ばせて眠りに付いた話には、何か引っかかるものがあります。

 話し合いの結果、父は三男の医者の家へ引き取られ、離婚はせずに別居という形に収まりましたが、七十にもう手の届きそうな父が何を思ったか、ふと、考えます。それはママのことではない。親子という父と子の安らぎ、血の繋がりに自分の孤独を埋めたいと。死んで残せるものだけはママではなく、息子達に~と思っていたとしたら。

 死は何時、何処にでもいた筈。でも、息子を医学の道にすすめさせたかった三男の家で迎えた死は、安らかに死者を眠らせてくれた筈です。

 私は八十過ぎて、父の孤独をわが身に投影し、色々な想いが自らの痛みと重なるのです。
 去年の秋も深まる頃、初めて、父の墓参りに行きました。

   秋桜ことさらならず 父の墓
                            のぶを 

2010年1月11日月曜日

貴方の孤独よ 父よ 第6回 - 戦後の青春時代


 家の横手に回り、濡れ縁の簾越しに声をかけます。「ママ、元気だった?」一番最初に戻れたのは私でした。八月ももう秋口です。あの真っ赤な夾竹桃が季節には無頓着に咲き誇っています。その年の末迄には兄弟四人揃うことが出来ました。
 
 日本の軍部が崩壊し、戦後のデモクラシーの時代が始まります。ママはパパとの連絡を当然喜んだ筈です。家族は揃いましたが、問題はこの住まいが狭すぎること。男兄弟が4人、Kさん、ママで6人が暮らすのですから。
 
 東京への郷愁、女の夢は現実に負けないこと、母はそう思っていたのでしょう。パパとの遣り取りで、何を話したか、私には一言も聞かされていません。でも、長男は聞かされていた筈。一家は世田谷明大前に、百坪の土地、平屋木造家屋に住むことになりました。

 軍部が崩壊し、アメリカンデモクラシー、戦後の幕開けです。長男の兄も、三男の医者も各々の職業に付き、結婚、独立しました。次男の兄は映画の助監督で、殆ど家に戻る事もなくなり、何時か家は以前のようにママと私、それにKさんの3人に。Kさんも前の仕事の保険のセールスに復帰。

 私は小型自動車免許とりましたが、車を運転する仕事にもつけず、ペーパードライバーのまま一度も街を走る事も無く、唯の身分証明書のままです。

 それでも戦後の数年は私の青春を謳歌していましたよ。
 私の師とも云える2人の画家、山本蘭村氏と井上三綱氏。
 有島武郎氏の血を引きつぎ、従兄弟に音楽家である山本直純氏を持つ芸術家一家の山本蘭村氏。
 戦後初めてのアンデパンダ展で、当時世界のイサム野口に見出され、大賞を取った狐高の画家、小田原 入生田の塔頭(たっちゅう)に籠り、絵と絵画の違いを日本の「無」という切り口で平面の向こう側に出た人、井上三綱氏。お二人とも私がこの店をオープンした頃の前後、お亡なくなりになりました。有難うございました。

 吾が師よ、三綱さん、平塚美術館で先生の回顧展、懐かしく拝見しました。でも私を魅了した小品、二つの桃は見つけることが出来ませんでした。そんなことは私が所有している「巻貝の中の牛」と同じように人の目から秘匿されたまま埋もれているのでしょう。

2010年1月10日日曜日

貴方の孤独よ 父よ 第5回

 1941年12月8日、日本はハワイ沖でアメリカと戦闘状態に突入しました。太平洋戦争の勃発です。昭和17年、私は中学3年の17歳の時でした。

 三男の兄貴は、上の兄貴2人が召集を受け軍隊に入った刺激もあったのでしょう。私は兄が秘かに机に向い、血書の嘆願書を破っては認め直しているのを盗み見しました。兄はもう医大を卒業し、医師研究生で石川県の山中温泉町の病院に派遣され直ぐにも行く手筈になっていたのです。軍も医学生の入隊免除は、はっきり認めていました。兄には無念だったことでしょうね。 

 家に残った家族は、またしても、私 ママ Kさん。父親からの送金は閉ざされ、お米も配給制。手に入る限られた量はわずかでした。食料はヤミ米。お金の価値が下がり、農家に買い出しにいっても米をお金では売ってくれません。農家で欲しがるのは、身につけるもの、衣類、履物、とくに着物類は喜ばれましたよ。お米は配給制なので、見つかれば、直ちに没収されます。ママのタンスの中はだんだん空になり。 お米のご飯を口にする事は殆どなくなりました。サツマイモ、グリンピース、大豆などで飢えを凌ぎます。

 そんな頃、Kさんの子供がいつしか転がりこんできました。私より年下で当時12、3才だと思います。ママは此の子を可哀そうなくらい無視した扱いをし、食事も同じテーブルには付かせることはありませんでした。

 そんな家族の人間関係を巻き込み、私は二十歳になり、戦争末期の軍隊に召集されました。前回「サイドカー」に書いたとおりです。
 
 昭和20年8月14日、日本降伏。私はいくらかの給与と毛布、米を支給され、多摩川あたりの仮宿舎までトラックで運ばれ、秘かに解散させられました。駅のあるところまでただ、茫然と歩き、上りの電車に乗り込み、座り込んでいました。車両はすいていました。誰もが俯いて、もう何をする意欲のある顔ではありません。
 
 兎に角、新宿迄戻る事が出来ました。駅のホームは屋根は飛ばされたまま、車両のガラス窓は無く、家畜輸送車のように、板張りです。駅の外は無残な状態でした。ただ一面、焼け野原、建物の瓦礫の山、所々で家を失った人々が、防空豪を利用し、焼けただれたトタンを被せ、豪の外に住居表示を書き記した板を瓦礫の中に埋め込んで消息を確かめあっているのです。これから小田急に乗るのですが、驚きは日本の交通機関が破壊されなかったという現実。それに帰還兵というのか、敗残兵の格好の私。これも現実の出来事。
 
 とうとう原町田です。住宅地は無傷です。家の前で躊躇いがあります。玄関から
入る勇気がありません。私の息子が初めてアメリカ留学した頃、私達夫婦も遊びに行っての帰り、成田空港の検問に札がぶらさがっていました。「エイリアンの方はこちらの入口へ」とあり、何か異様な感慨を持ったことがあります。家の前に立ち、それに似た思いをしました。そこから私は拒否されていましたね。

つづく

2010年1月9日土曜日

貴方の孤独よ 父よ 第4回 - 原町田へ引越し

 私たちの家に出入りするようになったこの男の人、なーちゃんの兄をKさんと書きます。俳号が三文字でKで始まる名前でした。

 その頃、私達家族は世田谷の若林に移り住んでいました。出入りの門の前は路地、周りはすべて畑に囲まれています。買い物はバス通りがすぐなので、渋谷のデパートへ行くのがママの日課みたいでしたね。ママは日本料理も手際は良く、味にううるさい人です。兄達のいるときは、おかずの量、数を私とは分け隔てがあり、ご飯も、2杯以上お代りさせてくれませんでした。夜は九時過ぎまで起きてることは許されませんでしたよ。 
 Kさんが夜も泊っていくようになってからも、それは勿論きちんと守られていました。彼は夕方日の落ちる頃、普通のサラリーマン並みに家に帰ってきます。大きな鞄を提げ片方の手には露天のたたき売りバナナとか、グレイプフルーツを買って来てくれましたよ。それを食事の後のデザートに。父のいないまだ少年の心は喜ばないわけはありません。そんな時、ママの嬉しそうな笑顔が有りました。

 時間どおりに私は奥の八畳の部屋で寝ます。布団が三つ敷かれてあります。右端の私の小さな布団、隣にママの布団、少し離してもうひと組、厚手の布団です。ママは就寝に付く時、必ず大きなハンドバックを私の枕とママの枕の間に立て置いてから寝ました。 

 こんな若林の生活は、支那須事変も長引き、アメリカとの国際情勢が険悪な様相を呈し、東京も火の海になるとの噂に、地方への疎開へと移っていきました。次男の兄にも召集令状がきました。もう女手一つでこの家を支えてはいけない。Kさんが原町田に陸軍の偕行社の住宅を格安で借りられると探して来ました。若林は高級住宅街です。私の通学は遠くても、偕行社は陸軍の家族達の相互扶助会なのです。そこへ入れてもらえるなら「背に腹はかえられぬ」と決断し引越しすることになりました。

 其の時には医学生の三男の兄貴が引越し手伝いに来ました。荷物を整理する事とは、捨てて行くことですね。兄貴と私はママの大事な植木をリヤカーで。兄貴が自電車で引っ張り、私が車を後ろから押すことで、原町田迄を引っ越しました。さて結果はどうなっていたでしょう。植木鉢ごとに薔薇の木。隙間に詰め込んだ鍋、甕。牡丹の鉢も大事にして居ましたね。握り飯、水筒の水。地図は首にぶら下げ。多摩川を超えるまでは、ピクニク気分。そこから先は山あり谷あり、登り坂を自転車では登れません。でも舵をとらなければなりませんよね。交代。私が舵。何回も休み山有れば谷です。  
 
 畑ばかりと思っていたのに、田園があり、そんなところで握り飯を食べました。やっと山道を抜け、広い舗装道路です。これが多摩御陵へ通じる行幸道路。ここまで来れば原町田の外れに出る筈。午後三時に付く予定が一時間遅れています。私も兄もだいぶバテていましたね。小田急の踏切を超え、もう目的地です。
 
 道の両サイドには人家は殆どありません。倉庫、畑がつづいてます。ここで、家族が住むということは、新しい人間関係を形成するということになります。Kさんが父長、ママが母親 私は子供。やくざ映画ではないけれど、「浮世は、義理と人情の板挟み」というやつです。

つづく

2010年1月3日日曜日

貴方の孤独よ 父よ 第3回 - 世田谷若林のころ


 母の生活は父からの送金で賄われていました。当時、為替レートが1ドル365円。ドルで送られてきて円に換金され、手数料を引かれても大金です。一番上の兄貴の5、6年前の初任給が其のころ50円と聞いた時代です。紙芝居が1銭、ベイゴマが2銭、3銭の小遣いです。10銭あれば子供料金で映画館に入れましたよ。これから支那事変が勃発する頃です。
    
 昭和15年、軍に長男が招集されました。支那事変が起きたのです。北支派遣軍として中国に行き現地教育です。私が15歳ですから兄は25歳ですね。兄はこの後、大東亜戦争に突入し一度も内地に帰ることもなく終戦時、新島から帰還したのです。
    
 話が飛びました。つまり、これから終戦まで家族に、父親代わりの長男が居なくなるのです。

 母がある日、私を呼ぶのです。
「ノブ、一寸ここへ座って!」
また、怒られるのか、と傍に寄ると、
「この便箋にパパに手紙を書いて。ママが云うように。」
ママは達筆なのに。私は悪筆で学校でもノートを殆ど取ったことが有りません。この不器用さが今の私の人生を作ったのです。

「パパ、僕、元気だよ。アメリカの絵ハガキ楽しみに待ています。ジャム、ジェリーが大好き。ママが元気がないよ。お金がパパから来ないって言ってる。送ってね。伸夫」

 こんなことを書いた気がします。今から思うと送金事情が、日米関係の悪化と共に為替事情の取り扱いに何らかの取り締まりの目が厳しくなっていると理解出来ました。
     
 私は15歳で青山学院中等部に入りました。次男の兄は大学を出て、直ぐ映画の仕事に入り、家に帰る事もなく熱中し、嵌り込みましたね。三男の兄は医科大学に入り、研修生とて長野の医療機関に住み込む準備を整えている時代でした。 そして家族は?何人?其の後のパパとママのやり取りは知りません。電話も手紙の連絡も、今とは訳が違います。

 私の息子がシアトル大学の留学時代、昼夜反対の時間の連絡に、FAXを購入しました。今でもそのまま使っています。
     
 私が二十歳になるまで、あと5年有ります。この5年、女手一つでの生活を、周りの男性は母をほっとく訳はありませんでした。以前から母の周りに出入りしてた彼。離婚歴のある子持ちの保険会社社員で、大口の官庁の仕事を持つセールスマンで、「海紅」と云う現代俳句の俳壇の同人、筆を持つと逆筆を使い魅力のある字を書きましたね。よく欠席届を書いてもらい、担任の教師にいい字だね、と褒められたものです。
      
 この人の妹さんもよく母の所に現れるようになりました。ママから短歌の指導をしてもらうという事なのです。名前が気に入りましたね。「撫子」なーちゃんと呼んでいました。「大和撫子」女姉妹に飢えていた私は彼女の来る日を待ち遠しく感じていました。私が初めて女性と思った年上の女。私となーちゃん。この人には、色々勉強させてもらいましたね。ことに、文学については、リルケ、オスカーワイルド、フランスの詩人達、マルドロードの詩、随分この年上のひとから吸収させてもらいました。学業そっちのけで学友そちのけで、チャペルの裏の芝生に寝転がり、文庫本を読み漁りましたよ。

つづく

2010年1月2日土曜日

貴方の孤独よ 父よ 第2回 - 淀橋のころ


 母をママと呼んでも、父をパパと呼んだことはありませんでした。ママがアメリカに居た頃、常時眠りに着く時、枕の下に婦人用コルトを偲ばせて眠りに付いたと。これは母の日誌のメモなのか何気なくの拍子に口を付いて出た言葉かそれはもう七十年前の夢物語り。

 父のその後は、数年間、母の口から何も聞かされませんでしたが、何カ月に一回は小包みが届いていましたね。当時の日本は、物資、食料は餓鬼道に落ち込む程飢えて居ました。クッキー、チョコレート、ジャム、ジェリー(これは父が自分でイチゴジャムを作り、保存して置いたものを送ってくれるのです。)後は衣類です。派手なグリーン、ブルー、黄色。冬にはグリーンのコートを人目を憚らず着こんで歩きましいたよ。
     
 或る時、塩鮭の大きいな梱包が届きました。その切り身を何故か直ぐ上の兄貴と、母親が旅行に出かけてる留守、三日間、鮭だけで食事をしていたら、二人揃って体中、蕁麻疹になり 下半身から上半身に駆け廻られた、情けない思い出があります。
     
 そんなことで、父の職業がパン屋さん、ベーカリーをしていると話して貰えました。母への手紙の中に、大事に保存してたお菓子のレシピが入っているようでした。今でもママの作るレモンパイ、ドーナツ、一緒に手伝った日々を数えて、忘れられない味覚です。あれはパパの手掛けたレシビなのでした。

 母は良く引越しをしました。淀橋にいる時だけで、三軒、紙を横に張り、空き家の文字!ひとつ所に住むと目立ちすぎ、噂の種が絶えない。男の出這入り、女手一つの遣り繰りが不自然だ、などなど。

 母は短歌、俳句の結社に所属し、白秋 夢二などとの交流を持ち、男性からは「ローズ夫人」「カナリヤ夫人」などと呼ばれていました。洋装も素敵でしたよ。帽子は勿論、顔に垂らした黒のベール、ハイヒール、目立たない訳がありません。家には書生を置き、外回りの雑用を仕切らせていました。

 淀橋から、逃げ出すように、私達は世田谷に移りました。其のころから、一人の男性が私達の家に頻繁に出入りするようになりました。

つづく
 

2010年1月1日金曜日

貴方の孤独よ 父よ 第1回


「チャタレー夫人の恋人」を書いたD H ローレンスの言葉が、若い頃の記憶に残っています。男親はただ居るのだと、いうことだけで、子共と一緒に居なくても大丈夫なものだと。
細かくは覚えてはおりませんが、人生の手引きに為る暗喩を重ねた神秘的な言葉が、若かった頃の私を惹きつけましたね。  

 私が父の姿と初めて出会った時は小学二年の頃、横浜埠頭に家族一緒に迎えに行きました。私はその時八歳、一番上の兄が十年上です。暁星中学の詰襟を着ていました。私以外(3人の兄)はアメリカ、シアトル生まれです。私は母のお腹の中で海を渡り、東京で産まれました。
    
 つまり、母と父との再会は私達の歳を足すと、八年ぶりということになります。母がもし二十歳の時、海を渡り、数年後兄を産んだとすると・・・此の時の母の歳は三十八前後。父の歳は知りません。

 船が埠頭に着き、乗客が皆でデッキに姿を現します。波止場に輪を囲み出迎えの歓声を上げています。下船が始まったのです。「あそこだ!」と兄が手を振ります。小柄な人です。当時日本では見かけないパイプを咥え、中折れ帽子にロイド眼鏡。

 どういう訳か、此処からの記憶がまるでないのです。家族で出向かいに行ったと思っていたのに次男、三男の影がまるで消えています。もっと不可解なのはその日、父が何処に泊ったのか、母と父の姿が並んだ映像も何処かに消えてしまって居るのです。
    
 ただ一つ記憶あるのはあの匂いです。パイプの匂い、葉巻の煙です。これは一人で家に居る時、一番上の兄の書斎を開けた時、応接間のソファーに寝ころがった時、ふっと嗅ぐのです。
    
 それっきり、父とは一度も顔を合はせたこともありません。母をママと呼んでも、父をパパと呼んだことはありませんでした。

 ママがアメリカに居た頃、常時眠りに着く時枕の下に婦人用コルトを偲ばせて眠りに付いたと。これは母の日誌のメモなのか何気なくの拍子に口を付いて出た言葉なのかもう七十年前の夢物語り。

 つづく