会場に遅れ、席に座れない立ち見の人垣を彼女は平然と、その間を真っ直ぐ中央の席に進みます。振り返り誰もがカロリーナ嬢と分かると彼女の歩む先は自然に道が出来てしまいますね。
前の席で悠然と座りこんでいた一人の武官が慌てて立ち上がり、彼女の手を引き寄せ自分は跪き席を明け渡します。彼女お気に入り若き武官。彼はエステルハージ伯爵の父からも目を掛けられている日本では王宮を守る儀仗兵です。
彼は遅れて入ってきたカロリーナに一生健命に囁いています。一方、彼女は馬車で揺られ、疲れと化粧の崩れが、気になり、バックの中からコンパクトとパフを引き寄せ、思い切り顔をはたき始めるのです。身の回りに飛び散る白い粉。少しも意にかいしません。
でも、ふと演奏の流れに気づいたのか、さっき迄耳元で囁いていた武官の顔を見上げ、目線で「あの人?誰?」また、彼は調子づき、耳元に「シューベルト」と囁くのですが、聞き取れません。彼は指を伸ばし小指でコンパクトの鏡がパフではたいた粉で真っ白になた鏡に「シューベルト」と筆記しました。「知らないわ」多分彼女は首をかしげたのでしょう。調子に乗った彼はシューベルトがさっきまでサロンの人達の物笑いになっていたいきさつを面白可笑しく囁いてご機嫌を取ったのでしょう。彼女は下を向き、笑いが止まりません。
シューベルトの指が2楽章から3楽章に移ろうと、新しい拍子のメロディー、ト長調4分の3拍子が流れようとする其の時、彼女は息を抑えようとした瞬間、笑い声が爆発。シューベルトの指がピアノの鍵番からはなれません。
館内は一瞬静まり返りました。笑いはまだこらえきれません。もうシューベルトは立ちあがっていす。青年まだ二十歳代。
シューベルトはもうピアノから立ち上がり、笑いが起きた一隅に顔を向け怒りの表情。カロリーナ嬢は、まだ笑いが収まりきれず、背を倒し手で口を押さえ 堪えるのにもう必死。でも周りの雰囲気に気づき、上目使でにシューベルトの怒りの顔を見たらもう駄目。彼女は堪えきれず、さっきまで、若き武官に耳元で囁かれた、この会の主役、シューベルトのおかしなの登場。質札を下げたタキシード。その紐で侯爵夫人の秘蔵の彫像をひっくり返した話。そして彼に浴びせた夫人の皮肉な一言。その話を想い浮べ、今、その人が立ち上がり怒っている、もうそれはもう堪え切れない可笑しさなのです。
彼女もまた孤独なのです。誰がこの秘かなる哀しみから、湧きあがった笑いを止めること出来るのか。人の定めとは、しばし、あらぬ方向にお互いを結びつけるものなの。
爆発した彼女の笑い声は、会場の人びとをも唖然とさせるもが有りました。シューベルトの怒りも、2楽章から3楽章に入る、ふっと新しいメメロディーが指から滑り出した時なのです。泣きたい程悲しかったはず。この怒りも。立ちあがったままピアノの台の上に楽譜を置くと、女性の笑い声のした方に向い叫びます。
「そこで、御笑いになった御方、どなたかは存じません。でも、私は道化師ではありません、ここに、私は笑いものにされに来たきたのではありません。」
楽譜を小脇に抱えると、会場のロビーです。後から追いついてきた協会役員が公務員のような口のきき方で説得するのですが、シューベルトはもう聞く耳を持ちません。役員の話、はこう云う事です。
「サロンの催しにはこんなことは、付き物なのだ、軽く受け流すのが常識、むきになってサロンを壊すことは、もうウイーンの学友協会から、相手にされなくなると、云ううことだ。戻ってピアノを弾き給え。」
シューベルトの言葉は同じです。
「あの女性にお伝え下さい。 私は道化師ではありません。」
この言葉が二人を引き寄せる、人生の不可解なキーになるのです。