2011年3月8日火曜日

ママの散歩 - 東京ゲートブリッジ



江東区の若洲から大田区にかかる東京ゲートブリッジ。中央の桁(108M)が繋がりました。橋好きの私は見学がてら若洲の釣り公園へ散歩にでかけました。橋はとても長いけれど、格好は・・・やはり、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジにはかないませんね。この公園、昔、お台場に子供達と釣りや行っていたころのよう皆のんびりと釣り糸を垂らしています。昔のお台場は大きな建物もなくのんびりとしていて潮干狩りができたのですよね。懐かしい思いです。

2011年3月3日木曜日

ジャズクラブ J 最終回

 狭い階段を降りて地下のドアを開けました。まだ照明も暗くしてあり、右手にカンターが据えられ、その横
に素敵な座席がステージを取り巻くように敷きつめてあります。テーブルも放射線状に配置されています。
 未だ開演前のひと時を、OB会のメンバーはひそひそと、笑い声を交え旧交を温めているようです。もうシニアといわれる年代です。

 さて、私達は?彼女はW大卒のジャズ好き。私はと言われると、千葉の観光ホテルでの住み込みバーテンダー。生まれは神田、実家は世田谷。社会の裏側をすり抜け、明日を放棄した生き方を信条に、鴨川、小湊を拠点に18年。ホテルは観光客対象です。休日など取る暇はありません。

 避暑客の客層は東京の人。この東京の文化に接する喜びが有ります。思わぬ人との出会い。私の師とも云うべき山本蘭村氏の言葉「邂逅のごとく人と逢いたい」素敵な言葉です。生まれ育った土地を離れた人には、殊に想いを深くするのでは。こんな想いは、私が30代の若さですので、50年も昔の話。グローバル化した現代、なんの世迷言!のおじさんですね。
 そんな言葉はもう意味がないよ。何処に誰がいても逢いたいと言えば呼ぶことが出来る時空間の世界にいるんだよ。それより、「ここで逢ったが百年目」と言われた方が怖いですね。

 今日、クラブJにやって来たきっかけは、私の細君がまだ若かりし日の二十歳代にドラムをたたくYさんと同じ会社で仕事をしてたのです。その頃、二十歳年下の彼女と私は千葉で知り合いました。彼女の母方の叔母が千葉の土地の人で、私のいたホテルに女友人と二人で滞在し、その叔母に逢いに行くと云う口実?で夏の終わりの海を眺めに来たのでした。何という風流な!

 でも、避暑客のいなくなった秋口の海辺は淋しいものですよ。滞在客もいないし、恋人同士なら、其れもまたいいでしょうが、浜に出ても、テントを張った茶店も、海の見張り台すら片付けられ、高波に打ち上げられた流木がひっそり砂浜に横たわっているだけ。夕方の日が傾けば、茶店も売店もサッサと店をかたずけて帰ってしまいます。

 そんなお二人に私は声を掛けました。「どうですか、お食事が終わりになったら、海ホタルを見にいきませんか?」私は別に下心が有って誘ったわけではありませんよ。海ホタルは夜の海に行けば何処でも見られると云うわけではありません。私も海ホタルの美しいブルーの色には息を飲むのです。波が白く砕ける瞬間、海ホタルがブルーに輝くのです。そこは、「弁天」と呼ばれる磯、岩場のあるところ。私はお二人を弁天までお連れしましたよ。彼女の友達は月明かりの岩場を何だか怖い、と言ってましたが彼女は何故か怖がる様子は有りませんでした。彼女は今でも夏、弁天に行くのが大好きですね。 

 そんなきっかけで私達二人はフレンドリーな付き合いになったのです。私は上京するたびに、八重洲の地下から電話で会社の彼女に電話をかけました。物覚えの悪い癖に電話番号だけは覚えられました。番号の下4桁が2534。言葉では憚るところなのですが、ダイヤルを指で回すと自然と「二号さんよ」と打てるのです。

 彼女の会社は八重南口の通りを渡った直ぐ近くの大きななビル。でも、彼女は何時も私の待つ地下の千匹屋でまで5分と待たせませんでしたね。そして、彼女はもう一人の友達にも必ず連絡をして、会社が引けてからは何時も3人で遊び歩きました。

 彼女は髪の長い「少女」ではありませんが、私の好きな長い髪を垂らしていました。私の実家は世田谷の明大前。彼女は下町娘で隅田川の傍。会社から15分で歩いて来られる距離。町名など云っても分からないと、彼女の方はお見透しだったのでしょう。

 東京にでて来るのは、月に一回。仕入に行く口実を作り、勿論、本当に上野アメヨコでバーのつまみ、レモンなどを送らせ出張費を稼ぎましたね。私の生活といえば、その千葉の町ではお金を使う場所がないのです。遊びは賭けごとだけのヤクザな環境。給料は安くても、上京する時の懐は結構なものでした。明日を持たない男に貯蓄などの概念がないのです。でも、彼女を知るようになり何かが少しずつ、自分が変わってきてると 意識していました。もしかしたら、これを愛と云えるかも。

 彼女を通して会社の忘年会などを自分のホテルに持ち込み、暮れのセールス競争をトップに持ち込んだこともありましたね。そんな忘年会の席上で、私は彼女に会社の上司ともいえる親しい人達に紹介されたのでした。その人達の中に、今このクラブJでドラムを叩いていらっしゃるYさんがいたのでした。

 イメルダさんと珍しくおとなしく、会場のコーナーに席を取り、ジンリッキーなど飲み、少しずつテンションを上げていくのでした。そんな中、後ろの席は殆ど埋められ、隅の私達の横にも若いカップルが座りイメルダさんがテーブルなどを少し譲り合ったり、団員のメンバーも壇上で音合わせがはじまります。平均70代のシニアの方々で、べ-スの方がほかの人より年上で、聞くところによると最近まで大病でどこか手術を為されていて、これが復帰初めての演奏なのだそうです。紹介が彼のところに回りますと、会場総立ちで声が飛び、拍手、拍手の波。親族、友人、ファンの熱い応援。これが同期会をつづけてこられた宝です。

 ピアノから低音部の音がながれます。管楽器の中央の奏者の左右に二人。その後ろがベースを構えた病み上がりの彼、その横がドラムの彼です。家内の何十年前の同僚ともいえるYさん。イメルダさんはカメラを構え、臆せずシャッターを切り始めましたね。私はジャズを聞くタイプではありませんので、その曲が何であれその音の主題に浸っていられれば充分なのです。イメルダさんみたいにこの曲は有名な曲で、曲名はこれこれで何年代の頃の曲と囁かれても、駄目です。偶にトランペットが音を外したなとか、ピアノの左手が附いていけないなど、そんなことは気にはなりません。皆さんは集まる機会も少なく、ご自分で練習したのは2、3日前に楽器の前にやっと立つただけで、今日なのです、とおっしゃっていました。それから演奏の中頃に交代した管楽器トランペットですよね、

 フィナーレはYさんのドラムソロ「チュニジアの夜」モロッコ外人部隊、あのマレーネ デイトリヒを思い起こさせるこの土地の曲名のドラムソロはジャズ音痴の私にも酔うことが出来たのはラム酒を飲んでいたせいだけではありません。Yさんの四十年昔の私の細君達と パーテイーでドラムを叩き、私が其のころの彼女に招待され、会社の会議室で当時流行った「今 洋子」の唄を彼女がステージで振付をして、歌ってくれた時代を思い出しました。シニアの皆さん、昭和は遠くなりましたね。Yさん、ありがとうございました。