ウィーンのオペラ座と楽友協会に私を連れていく?頭の中には毎年のニューイヤーコンサートは、この楽友協会のホールで演奏されると云う聞き覚えがあるだけです。
話を聞き始めると、ここオペラ座は、国立歌劇場。モーツアルトのいたころは宮廷歌劇場だったわけで、モーツアルトがウィーンで活躍したのは、200年程前ですね。当時は宮廷楽師としての地位がなければ、貴族、セレブの援助を受けることが難しい階級制度がありました。
モーツアルトは若い時から、宮廷の大司教コロレド聖職者の、親密な保護が有ったと聞きます。ウィーンでの宮仕えの虚しさ。宮廷音楽に満足することができなくなた彼は不意に故郷のザルツブルグの我が家の部屋で、初めての短調、あの25番のシンフォニーK183を作曲したのでした。
時代の波は旧交響曲の流れに若さと新しさを求め「疾風怒涛運動交響曲」はウィーンを中心にあの有名な大詩人ゲーテ、「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」が音頭を取ったそう。
モーツアルトはこのト短調シンフォニーを手に、1773年秋、また宮廷楽師としての職務に戻るのです。この運動は諸国に身をひそめている音楽家も、容易にウイーンに近づかせなくし、あのベートーベンでさえ、モーツアルトのいるウーインには脚を伸ばすことを、躊躇った聞きます。
私が初めて、このト短調シンフォニーを聞いたきっかけは、戦後の二十歳代青春真っ盛りのころ、小林秀雄が書いたモーツアルトのこの言葉。
モーツアルトの TRITESSE ALLANTE
「悲しみは疾走する 涙は追いつけない」
此のセリフは、戦後の20歳台の若者の屈折した悩みに、どれほどの衝撃を与えたことか。
I君は私の文学、フランス語の唯一の友人で家が下北沢、私は明大前。私達は下北沢の駅でよく落合い古本屋めぐりをしながら、本屋のおやじさんから「此の裏の横町の奥に横光利一先生の家が有るんだよ。」と教えられると、其の通りを通るだけで、胸をときめかせたものです。
或る時、その彼が下北の駅で別れ際、普段とは別人のように口もきかず、背を向け反対のの出口へ手も振らず去って行きました。 私は非常に腹が立ちましたが、それならそれでと、自分の腹をくくりましたね。
つづく
悲しみは疾走する・・・衝撃的な言葉だね。
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