2010年11月27日土曜日

麻生三郎展


 竹橋にある東京国立近代美術館に家から散歩をしてきました。東京駅から皇居までの銀杏並木で子供達が黄色い葉っぱをかけあっていて、愉しそうです。

 個展のデッサンの中には八丁堀は南高橋、月島は昔の石播工場のクレーンが、幾つか描かれていて、私が昔南高橋から眺めた景色を思いだし、懐かしい思いでした。

 我が家にも、麻生三郎デッサンの手帳があります。その歳の干支を描いた表紙です。ママ

                                 

2010年11月22日月曜日

雑誌「散歩の達人」に掲載・・・!


 この雑誌「散歩の達人」に書かれた湊町界隈を読ませてもらいながら、私は34年前の見果てぬ夢の頃を思い出すのです。

 この店を構えた当時はオイルショクの時代。今時そんな水商売やっていけるわけがない、と誰からも言われたものでした。鉄砲洲界隈神社の前にバス停があり、地下鉄が八丁堀を通っていました。この交通手段の間に湊町があります。
 桜川(八丁堀)から流れ込む汚水は稲荷橋を抜け、隅田川へ流れ込むのです。その汚水の悪臭は誰もが手で鼻を抑え逃げたものです。
 河川の汚水問題がやっと問われるようになり、八丁堀から稲荷橋までを暗渠にする計画工事を進められ約十年をかけ、浄水場をも設置しました。 その後、橋は取り壊され、「いなりばし」と書かれた跡碑があるだけで、昔の面影はありません。

 昔は稲荷橋の上流側に艀「ハシケ」の溜まり場ができました。船はお互い「モヤイ」で繋がれ、陸へは船からワタシ板がかけられ、行き来ができるようになっていました。 
 ハシケは潮の干満に合わせて朝早く、曳船が仕事に船を引張りにきます。寝ている家族、子供は陸に上がり、または仲間のハシケに身を寄せることになります。

 ハシケはだるま船ですから自身では動けません。竹竿で川底の届く範囲で移動するだけ。モヤイするふな溜まりには海運業者が作った水洗い場が備えられてあります。母親はハシケと共に、勿論共稼ぎです。子供は昨夜から用意された朝食を食べ通学の時間を待ちます。小学生の娘がいれば、母親代わりの洗濯、晴れれば布団干し。  
 そんな船の生活者を、私達はただ、見ていたことを今更、自分達を含め頑張ろうと、考えるだけなのです。

 こんな話を書く予定ではありませんでした。湊町のことを書く筈が、又横道に入りました。
 店を開店したご挨拶の言葉書きを34年前を懐かしみ抜き書します。

 < ごあいさつ >

 東京の街にも、まだ下町情緒を残した一画が残っております。
 隅田川のポンポン蒸気の音が聞こえてくるような路地裏に小さな店を出すことになりました。
 どの方角から来ても、アア、こんな橋が有ったかと、郷愁を誘うのではないでしょうか。
 下町の路地裏で飲む酒は、またどんな味わいがあるのか、是非、お試しください。
 ラ ・リュード・湊は私達には懐かしい響きがあります。

2010年11月18日木曜日

猫のフー君


 フー君。お前の絵を描こうとコンテで見つめると、君はいつもポーズをとって動かないでいてくれたよね。

 でも、あの時は驚かされました。十月の終りごろだったよね。 三階の剣道具が置かれている隅で、籠に布団をいれてもらって 力無く休んでいたとき、パパが紙を広げて、何か描こうとしていたら、急に起き上がり私の前に来て、「描いてよ」とポーズを取ろうとして、上手く座ることができず。すぐヨタヨタして、ポーズをとれず、尻尾で重心を取ろうと尻尾を身体のまえに巻込んでよろけて、パパは上手く書けなくて。

 この絵は没にしようとしたら、ママが額にいれてくれたので、今、パパの画集に入っていますよ。元気だった頃のフー君。弱っていても、私の不器用な絵にフーが華を添えてくれましたよ。

 パパはまだ元気でいられるけどさ、先にいった人、君はそれなりに 次元を変えただけ?残された人はいっつも現在を生きていかなければ、それは何時も現在が人生だから。
 Mを泣かせないでね。お休み、フー。

2010年11月17日水曜日

一枚の銀貨


 昨日、月曜日。日本橋公会堂のドガの時代背景、ドガを含む印象派グループについての公演をを拝聴しにでかけました。開場は6時半。我が家、黒船屋から歩けば30分そこそこ。

 ところが、其の日は夕方から晩秋の冷たい雨。そのうえ、其の日は店が7時から女性客の予約が入っているのです。そこへ、息子が私を送ってくれ、私のいない時間を自分が代わりを務めるから心配するなと云ってくれました。彼はホテル勤務の身。水商売、客商売のことなら私が何も教えることもないプロです。むしろ私は何時までも素人っぽいことがお客に愛されている84才のバーテンダーです。女性客なら、若い彼がいるほうが気にいる筈。それに、私が戻るまでは皆さまは待っていてくれる筈。勝手な話です。

 そして、息子を二人で店を出ようと傘を取りだすと、
「傘はいらなよ、もう帰るまでにはもうやんでるから。」
と息子。彼は物事のけじめにハッキリしたオトコ。私は反対にだいたい全てのことに無頓着です。
 まだ小雨の公園を抜け地下鉄で切符を買ったら、
「じゃあね、迷子にならないで。」
 私は息子が、てっきり人形町の会館まで連れていってくれるものと思っていたので、
「なんだ、ここまでなら俺、一人で来られるのに。」

 詰まり、話はこうです。彼は7時、今、人形町の一つ先の剣道具屋から急いで帰って来たところ。何故なら、今日の予約のお客さんに合わせて、私の穴埋めに来たのだから店に戻るよ、というわけです。まあ、雨でなければ、歩いて行くつもりだったのですから地下鉄の改札まで御見送り御苦労さま、と一人で人形町の改札を出て、出口の階段が二つあり、左の階段を上がりました。 

 外は未だ雨。昼まと違い町はうすら闇、パーカーのフードをしっかり被り直し目標の水天宮の交番の灯りがどちら側にあるか、雨をすかして見るのですが、、、、わかりません。
 雨の日の商店街。観光されてる町はシャッターを早く降ろすものです。フードから降り掛かる雨も憂鬱です。昔、子供たちに絵本を読んでやっていて、読んでいる親がが泣きたくなる、御使いにだされた少年のお話。「一枚の銀貨」を思い出します。


 母親に云われた事を繰り返し呟くのです。
「バター半斤、パン一斤、それからチーズを三個 忘れずに。」
少年は一生懸命に言葉を歩調に合わせて小川を飛び越します。
「ヨイショ」
小川の向こうには明るい人恋しい、肉やの灯り。お店に少年は飛び込みました。お店のおじさんと顔を見合わせたのですが、さっきまで口で唱えていた言葉がでてきません。ただ、ヨイショ、ヨイショです。少年は手をグッと握りしめました、そして顔色が変わります、しっかり握りしめていたお金がないのですから。
 未だ低学年の少年、他人の前では泣けません。少年は今来た道を銀貨を探し、戻ります。ママの顔が見たい、怒られることなど考えていないのです。ママは迎えにでていました。ママは少年の顔を見ただけで、何が起きたか分かるものです。
「ママはお前が肉やさんに行って、戻ってきただけで、うれしいの。お金を落としたことは心配しないで。」
少年はそこで、ママの膝にしがみ付き、泣くのでした。

 この童話は何度子供たちに読んでも、自分の声が震えたものでした。

 ところで、私は出口から反対の歩道に出てしまった結果、目線が合わず交番を見つけることが出来なかったのです。

2010年11月6日土曜日

冬木立ち


 このブログは不器用に生きてきた私の全てに、世間がどんなに優しく、寛大であったか、と今更ながら思い出される一ページを纏める半生記となりました。

見上げるは あの日あの頃 冬木立ち

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