
この雑誌「散歩の達人」に書かれた湊町界隈を読ませてもらいながら、私は34年前の見果てぬ夢の頃を思い出すのです。
この店を構えた当時はオイルショクの時代。今時そんな水商売やっていけるわけがない、と誰からも言われたものでした。鉄砲洲界隈神社の前にバス停があり、地下鉄が八丁堀を通っていました。この交通手段の間に湊町があります。
桜川(八丁堀)から流れ込む汚水は稲荷橋を抜け、隅田川へ流れ込むのです。その汚水の悪臭は誰もが手で鼻を抑え逃げたものです。
河川の汚水問題がやっと問われるようになり、八丁堀から稲荷橋までを暗渠にする計画工事を進められ約十年をかけ、浄水場をも設置しました。 その後、橋は取り壊され、「いなりばし」と書かれた跡碑があるだけで、昔の面影はありません。
昔は稲荷橋の上流側に艀「ハシケ」の溜まり場ができました。船はお互い「モヤイ」で繋がれ、陸へは船からワタシ板がかけられ、行き来ができるようになっていました。
ハシケは潮の干満に合わせて朝早く、曳船が仕事に船を引張りにきます。寝ている家族、子供は陸に上がり、または仲間のハシケに身を寄せることになります。
ハシケはだるま船ですから自身では動けません。竹竿で川底の届く範囲で移動するだけ。モヤイするふな溜まりには海運業者が作った水洗い場が備えられてあります。母親はハシケと共に、勿論共稼ぎです。子供は昨夜から用意された朝食を食べ通学の時間を待ちます。小学生の娘がいれば、母親代わりの洗濯、晴れれば布団干し。
そんな船の生活者を、私達はただ、見ていたことを今更、自分達を含め頑張ろうと、考えるだけなのです。
こんな話を書く予定ではありませんでした。湊町のことを書く筈が、又横道に入りました。
店を開店したご挨拶の言葉書きを34年前を懐かしみ抜き書します。
< ごあいさつ >
東京の街にも、まだ下町情緒を残した一画が残っております。
隅田川のポンポン蒸気の音が聞こえてくるような路地裏に小さな店を出すことになりました。
どの方角から来ても、アア、こんな橋が有ったかと、郷愁を誘うのではないでしょうか。
下町の路地裏で飲む酒は、またどんな味わいがあるのか、是非、お試しください。
ラ ・リュード・湊は私達には懐かしい響きがあります。
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