ガス灯の灯りが、車寄せに、二頭の白馬を見事に際出させ、ロビーのクロークの係も緊張と期待で馬車の中の人物に瞬きも出来ず見守ります。守衛の白の手袋に手を預け、降り立ったつま先も見せない白のロングドレス。裾を引き摺り、コートを預け、無言のまま扉に歩み寄ります。エステルハージ伯爵令嬢です。
このコンサート主催は侯爵夫人です。爵位でいえば階級は下です。当時はオーストリア、ハンガリー帝国の時代。侯爵の下でも、名門ハプスブルグ一家につながる家柄。神聖ローマ帝国は、全てこの名門から出ているのです。父親ハハンガリー王国の儀仗兵を統一する軍人。広大な敷地に建てられた、城塞の様な屋敷。でも芸術の街ウイーンに比べれば、ブタペストはドナウ河を背にしたオーストリアの避暑地の様な場所。まさか、彼女はドナウ川沿いに馬車でウイーンに駆け付けたとは思えませんね。でも、何が何でもここへ来ることは女としての生きがいなのです。彼女を慕う多くの若き軍人たちとの愛の囁きを受けること。
音楽も素敵だわ。でもハンガリーの屋敷の周りには、私の心を癒してくれる人は何処にもいないわ。千里の道も遠いとは思わない。
この令嬢を演じている女優。私の若き日、ときめきを知った小中学生だった頃、あのマルタ イゲルト。私は小学生の頃から洋画ばかり見てましたよ。新宿文化劇場、太陽座、帝国館、光音座。これら映画館は割合小さな映画館です。
今だから告白すると、大抵はタダではいっていました。映画の終わる時間に合わせて、出てくる観客と同じ向きに後ずさりして入るのです。フランス映画専門の光音座はビルの6階で切符売り場と廊下が狭く、ガラス越しに下が見えないので、売り場の下を屈みこんで入りました。ごめんなさい!
マルタ エゲルトと云う女優さんは歌唱力、ダンスが素晴らしく、当時、昭和15、6年の話ですが、この映画は今見ても、心をときめかせます。ハンガリーのボヘミアンメロデーにのって踊る彼女、最後はゲーテの詩かもしれないこの歌。ジプシーバアヨリンがすすり泣きます。
「口づけを求めず 熱き想いを告げもせず
日ごと 虚しく心を乱す 夜の闇に君の名を呼び
手を折られし バラ 萎れるを待つばかり
日ごと 夜ごと君の名呼び 夢を見る
何時の日か この胸の堰の切れ 君に告げん まことの心を
こがるる想い 秘めしことを いつか身を包まん 幸せの輝きを
語れ、其の口より君を愛すと 偽りなりとも かたれよ 君を愛すと
君の目を見いれば 心はおののき 夜ごとの夢に君の姿を追う」
大分、話が横道に入りました。伯爵令嬢は重い扉を押し開き中へ。シューベルトの曲は二楽章の後半に差しかかっています。
つづく