厚い扉の中は広いサロン風の会場。上座の奥にゆったりと座っている侯爵夫人。その前にシューベルトは恭しく腰をかがめるのです。
其の時、ああ、何でそんな事になってしまうのでしょう。そうです、あの質札です。人の背中には目が有りません。何と、その紐が背をかがめた其の時、彼の後ろに据え置かれた高貴な朔像の手に引っ掛かってしまているのです。侯爵夫人は、挨拶の済んだシューベルトを、自ら身を起こし、では 私が皆さんにご紹介しましょう、と彼を従えるようにサロンの方に歩き始めた時、後ろに従ったシューベルトの一歩が、いいえ、あの質札の紐が 朔像を引き摺りおとして仕舞いました。
ああ、あの愛すべきエミリー。なぜ服を貸し出した時質札を外しておいてやらなかったの。其の情景に一瞬氷ついたサロン。夫人の皮肉たっぷりのその言葉
「これで今日は一段と演奏が楽しみになりました。」
彼は人びとに紹介されることもなく、ピアノの前に立つのです。そして、これから弾く曲を自身で説明します。
「この、シンフォニィーはロ短調で私の今、作っている作品です。」
静まりかえった場内、腰を下ろすシューベルト。さあ、何を心配しても始まりません。
エミリーも自分の部屋で、落ちついてなんていられる筈が有りません。シューベルトの下宿先まで出かけ、
下宿のおばさんにっ頼み込みます。
「どうか、この部屋で彼を彼を待せて下さい。」
おばさんは下宿の規則をエミリーに云います。
「宿は女性の出入りは九時迄なのよ。でも、知らない顔じゃないし おとなしくしていてね。」
嬉しそうな彼女の顔、此の顔はもう大人の顔です。
会場はもう、一楽章のそろそろ後半部に入りかけています。そして、ここで、ヒロインの登場です
つづく
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