2010年2月7日日曜日

春はそこまで


 娘から送られた写真。事務所の先生が、サンタクララで昼メシ時にお撮りになったポーズが目に浮かびますよ。でも これ、桜ではありませんね。桜は花が咲き、その後、葉が伸びて、それから、葉桜です。サンフランシスコの陽気でも、ちょっと無理ではありませんか。冬桜もありますが、こんな大木は知りません。花木に詳しいママによれば「ズミ」の花ではないかとのことです。
 花は春を呼び 小鳥達は葉隠れに恋心を囁く
素敵ですね!

鈴鳴らす 路加病院の 待つ春は 貴方の胸に咲く桜    ノブ

2010年2月5日金曜日

ジャンセン展 


ジャンセンの展示会がある。家内に云われ八重洲迄歩きましたよ。
丸の内側に出るには、構内を南から北側通路を横断します。最近駅構内は殆ど改築中。まるで、田舎者のように、躊躇いながらトンネルの様な通路を抜けだし、皇居側に出たものの・・・丸善は京橋にあった頃しか知りません。尋ねるにも立ち止まっている人なんか、いない。大東京の人種。目線を左から右に移し・・・Mと云う金色の彫り込んだビルがあります。Mが丸の内でも、丸善でも、信号待ちの人波に付いて、渡り、その建物の前まで行きましいた。一見、丸善ではありません。
 
 植木を手入れしてる職人さんに声をかけました。  
「ここ、 丸善ですか?」
「丸の内ホテル。丸善は、この後ろ。」
 やっと、入れたと、一階を見回しても飲食店、エレベーター、エスカレターの前で、人込みに茫然とするだけ。なにしろ エスカカレーターで上にあがると、建物が二手にわかれています。私の立つているところは何かの会場ですが、違います。中に入り、カンターの女性に聞きます。
「ジャンセンの展示場はどこでしょう?」
「ジャンセン?分かりません。丸善なら向こう側のビルです。」

 二つのビルの間に高架橋見たいな手すりの渡り廊下があり。下をお見下ろしながら、丸善のビルまでやっとたどりつきましたよ。

 店内に入ってまた、分かりません。また尋ねます。
「ジャンセン展示場はどこですか?」
「ジャンセンは知りませんが、展示場は四階反対側のエスカレートでどうぞ。」
 
 でもまた、尋ねるのです。
「展示場は何処?」

 やっと見つかりましたね。ざっと見渡して四十点程、リトが半分、自記筆が数点初期油絵が一点。まだ健在の九十四の画伯です。
 踊り子風の若い女。この絵が目を惹きつけました。私が所有してる「横たわる女」と同じモデルと思われます。立像、それに表示名が、なんと「バルバラ」!
 私の前で、その絵を鑑賞していらっしゃったマダムと係りの若い男性。私も横に並び、つい、
「リトはいいですね。私も、この手のリトを二十年程前、手にいれましたが、当時もいい値でした。」

 そのリト(上の写真です)を手に入れた時、デッサン直筆の女性像もありました。その前から三十分ほど立ち去れなかったら、支配人が、「そんなに気にいっつてくださるなら、この写真をさしあげます。」といただいたのが横の写真です。ちなみに、その画の価格は一千二百万円でした。




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東京丸の内 ジャンセン展
約30点が展示販売されるとのこと。
場所:丸善 丸の内本店 4Fギャラリー
期間:2010年2月2日から2月11日
お問い合わせ先:03-5288-8881

2010年2月4日木曜日

いなりばし-ママの独り言


 桜川の入口に昔かかっていた橋。
そう、「いなりばし」
私の好きな永代橋の小型の感じでした。
桜川の埋め立ての時、取り外されてしまったのです。
残念ながら写真は一枚も残っていません。
おばちゃんに預けたアルバムに勝鬨橋が開いた写真もあったけど、今となっては・・・!

2010年2月2日火曜日

誰もいない窓


みぞれがボタン雪になり

ただ白い

ただ降りつづく

胸に溶ける 冷たい 白い雪

2010年2月1日月曜日

竹久夢二展 2010年1月20日


日本橋三越、竹久夢二展に行って来ました。良かったですよ。初公開の「最後の油彩画」ほか美人画の名品が展示されていました。夢二は晩年サンフランシスコに居たこともあり、モントレーの絵もありました。私も娘宅、サンフランシスコで絵を描きますかね。

期間:2010年1月20日から2月1日まで
詳細はこちらhttp://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/yumeji/

2010年1月31日日曜日

猫町


 「猫町」は萩原朔太郎が世田谷下北沢界隈で横町に入り込み味わった奇妙幻想の感覚を書いた小説ですね。
私の少年時代は代沢、若林、明大前に住でおりましたので下北もよく知っております。
 友人とよくこの本を探して神田辺りの古本屋を歩きました。でも詩集は有っても、この本は奇観本でなかなか手に入らないよといわれました。
 「どうしても、欲しければ奇観本専門のあの店に行って御覧なさい。」
 有りました。それも初版本。結局手が出ませんでした。

 私達の時代はそんな文学的耽読時代ではありません。学業そっちのけ、軍事工場に強制派遣の日々です。青山中等部卒業まじか、赤紙がきたのでした。その話は、「サイドカー」で詳しく話しましたよね。
 そしてAvant-garde の時代も戦後apres’,gurreの狂騒的な東京も収まり、私は三十を過ぎ、東京を離れ、地方に十数年過ごしました。その後、結婚し、店を持ったのが、この町鉄砲洲界隈。息子、娘の二児の父。
 
 子供は直ぐ大きくなるものです、着る物は勿論、足、履物をいいものを買っても靴から、足がはみ出します。私の兄弟は四人で、兄貴の娘が着古したコートを息子にもってきてくれました。でも色が赤く男の子にはどうかとも、私達親は思うのですが子供は得意になって着ていました。
 
 そんな事をしているうち、息子は自転車を乗りたがります。四つ年下の娘はパパの自転車の後ろの席。これがきまりになりました。土、日はこのあたり隅田川下流は車量が殆ど走らなくなります。散歩とか、自転車とか、好きなところまで走れるのです。昔のお台場は一寸遠くになりますが、半日遊んでいても、飽きないところでした。携帯もない時代、子供の帰りを心配しているお婆ちゃんとママ。私も漕ぎ疲れるのですが、息子も泣きごと一つ云わず小さな自転車を走らせます。お台場から晴海埠頭、勝どき橋までくれば、もう家迄すぐですが。其処までの直線道路は倉庫街、休日閉店の店、変化がないし飽きてしまいます。今のように自動販売機など見当たらない時代。道端で座り込む外はない情けない姿。
 娘が私に「パパは何故、橋のところに来ると早く走るの?」私も咄嗟に説明が出来ず、「橋の入口が坂だから一生健命走るからだよ」ちゃんと説明が出来なかったことが残念でしたね。
 
 そんな思いで、夏と共に日々は去って行きました。子供の進学は親からの自立。アルバイト、勉学、恋愛に近い友達付き合い。夜は何時帰るかもわからない危険な関係。
 私は昔からの夜更かしが身に染みついて夜中の三時過ぎ迄も起きているので、店のテーブルの前でテレビをみながら、好きなことしていました、娘などは遅く帰ってきて、私の前に座り込み 勝手なこと喋ると、「もう疲れた、寝る、パパ、早く寝たら。」
 そうかと思うと、「銀座まで、自転車で迎いに来て!」さすがに、「助けに来てくれ!」はありませんでしたが。

 色々思い出しますが、やはり娘の小さい頃自転車の後ろに乗せ遠出した時の失敗談。
 上野谷中の朝倉彫朔館迄、京橋の首都高下、昭和通を真っ直ぐ御徒町に出れば、後は目と鼻のさき。しのばずの池を動物園裏の鴎外記念通りの坂を登り、この向こうの坂に猫坂が有るんだけど、と話ながら横の路地を抜けだし谷中一丁目に出たいと、ペダルを踏みこんでいると、娘が
「パパ、先きと同じところを走しているよ!」
よく見ると、同じ場所みたいです。車を止めて、一休みです。
「また、猫町に入いちゃったか?」「ここに、猫いないよ。」娘が云います。
そうなんです、何時も良く知ってる場所、町でも反対の方角から入ると、まるで違う場所に立っている気分になるみのです。唯の錯覚なのです。朔太郎の猫町とはちがいます。でも、私は娘と出かけると、よくこんな迷い道に入ってしまうのです。で、何時もいわれるのです。また、猫町に入った、と。
 
 今、娘はそんなこと有ったけ。と云うかも。
でも、覚えてる?貴方が中大生のころ、僕の友達のKさんが、ある日一冊の小型本を
「これ、娘にあげてくれ」と私によこしました。
 その本が若い頃探していた、萩原朔太郎の初版本「猫町」だったのです。
私は貴女に手渡しましたよ。

2010年1月27日水曜日

北条秀司の句碑にて


 北条秀司の句碑 
 「雪ふれば 佃は古き 江戸の島」   
 新橋演舞場で演じられた「佃の渡し」の最終公演を終え、この碑の立ち上げに二人して出向かれたと聞きます。如何にも劇作家らしい句。みなさん御承知のことと思います。

 私の店にかけてある 五所平之助の句、映画監督であり、春灯を主催しました久保田万太郎氏などと活躍しました俳人、この句も如何にも、映画監督と思わせる作品です。

 私の兄が、東宝映画時代から助監督をしておりましたので、開店のお祝いにいただいた作品、その時先生は私にこう聞いたのでした。 
「どういう俳句が欲しいですか?」
私は躊躇いはありません。「黒船屋」と屋号を付けた以上、答えは、大正ロマンの雰囲気のある句が欲しい。先生は開店にあわせてご自分で板に漆を塗り、黒地に白で書いていただいた句。カメラから覗いたワンカットそのままの俳句です。

「ふる雪が 別るるひとの  瞳にも降る」 平之助

五所亭さん。活動屋という人種の仲間は、こんな呼び方をしますね。
 平之助さんは、「一寸何か書くものない?」と、色紙でなくても気楽に句をお書きになり、署名は五と云う字がお好きで、色々な形で丁寧な署名を入れられました。
  
 私が北条さんの句碑の前に立って、この二つの句を紹介したくなる気持ちが多分分かっていただけたものと思います。 
 五所さん、アデイユー ボンボアイヤージュ! では、さよう、ならば! 
 
 私の店から、佃島、ああ、もう島ではありませんよね。歩いて橋二つ渡れば二、三十分で戻れます。普段の日でも、ある晴れた日でも気持ちの揺れるままに歩るいてきます。佃大橋から回るか中央大橋から出かけるか、陽がまだ西に傾かなければ、中央大橋です。
 
 佃大橋からの階段を登る際、目に着くのが佃の渡しの跡を記した記念碑です。これを横目でちらっと、捨て目を遣い橋桁を登ります。ふと、思うのです。
「渡し船が有る島なら島のどこかに、渡船宿が何処かにあっても可笑しくはないはず。」
たまたま、今日、身体のバネが良いので、町の周辺を当てもなく歩きました。でも、ない!ないのですね。

 家に戻り、下町育ちの家内に尋ねました。答えは簡単明瞭でしたね。云うには、 
「佃は流人を寄場人足として流した場所でしょう。旅館なんか有るわけないでしょう。」
 なるほど、でも釈然としません。新派でも、映画でも、島に渡り愛人同士が悪天候のため、船が出ず、宿に泊りこむはめになるストーリー。あれはやはり映画の話なのか?でも石川島はそうでも、佃職人がいた町には旅人宿位有る筈だと思うのですが。サンフランシスコのアルカトラスの監獄みたいな、島なら別だけどさ