「猫町」は萩原朔太郎が世田谷下北沢界隈で横町に入り込み味わった奇妙幻想の感覚を書いた小説ですね。
私の少年時代は代沢、若林、明大前に住でおりましたので下北もよく知っております。
友人とよくこの本を探して神田辺りの古本屋を歩きました。でも詩集は有っても、この本は奇観本でなかなか手に入らないよといわれました。
「どうしても、欲しければ奇観本専門のあの店に行って御覧なさい。」
有りました。それも初版本。結局手が出ませんでした。
私達の時代はそんな文学的耽読時代ではありません。学業そっちのけ、軍事工場に強制派遣の日々です。青山中等部卒業まじか、赤紙がきたのでした。その話は、「サイドカー」で詳しく話しましたよね。
そしてAvant-garde の時代も戦後apres’,gurreの狂騒的な東京も収まり、私は三十を過ぎ、東京を離れ、地方に十数年過ごしました。その後、結婚し、店を持ったのが、この町鉄砲洲界隈。息子、娘の二児の父。
子供は直ぐ大きくなるものです、着る物は勿論、足、履物をいいものを買っても靴から、足がはみ出します。私の兄弟は四人で、兄貴の娘が着古したコートを息子にもってきてくれました。でも色が赤く男の子にはどうかとも、私達親は思うのですが子供は得意になって着ていました。
そんな事をしているうち、息子は自転車を乗りたがります。四つ年下の娘はパパの自転車の後ろの席。これがきまりになりました。土、日はこのあたり隅田川下流は車量が殆ど走らなくなります。散歩とか、自転車とか、好きなところまで走れるのです。昔のお台場は一寸遠くになりますが、半日遊んでいても、飽きないところでした。携帯もない時代、子供の帰りを心配しているお婆ちゃんとママ。私も漕ぎ疲れるのですが、息子も泣きごと一つ云わず小さな自転車を走らせます。お台場から晴海埠頭、勝どき橋までくれば、もう家迄すぐですが。其処までの直線道路は倉庫街、休日閉店の店、変化がないし飽きてしまいます。今のように自動販売機など見当たらない時代。道端で座り込む外はない情けない姿。
娘が私に「パパは何故、橋のところに来ると早く走るの?」私も咄嗟に説明が出来ず、「橋の入口が坂だから一生健命走るからだよ」ちゃんと説明が出来なかったことが残念でしたね。
そんな思いで、夏と共に日々は去って行きました。子供の進学は親からの自立。アルバイト、勉学、恋愛に近い友達付き合い。夜は何時帰るかもわからない危険な関係。
私は昔からの夜更かしが身に染みついて夜中の三時過ぎ迄も起きているので、店のテーブルの前でテレビをみながら、好きなことしていました、娘などは遅く帰ってきて、私の前に座り込み 勝手なこと喋ると、「もう疲れた、寝る、パパ、早く寝たら。」
そうかと思うと、「銀座まで、自転車で迎いに来て!」さすがに、「助けに来てくれ!」はありませんでしたが。
色々思い出しますが、やはり娘の小さい頃自転車の後ろに乗せ遠出した時の失敗談。
上野谷中の朝倉彫朔館迄、京橋の首都高下、昭和通を真っ直ぐ御徒町に出れば、後は目と鼻のさき。しのばずの池を動物園裏の鴎外記念通りの坂を登り、この向こうの坂に猫坂が有るんだけど、と話ながら横の路地を抜けだし谷中一丁目に出たいと、ペダルを踏みこんでいると、娘が
「パパ、先きと同じところを走しているよ!」
よく見ると、同じ場所みたいです。車を止めて、一休みです。
「また、猫町に入いちゃったか?」「ここに、猫いないよ。」娘が云います。
そうなんです、何時も良く知ってる場所、町でも反対の方角から入ると、まるで違う場所に立っている気分になるみのです。唯の錯覚なのです。朔太郎の猫町とはちがいます。でも、私は娘と出かけると、よくこんな迷い道に入ってしまうのです。で、何時もいわれるのです。また、猫町に入った、と。
今、娘はそんなこと有ったけ。と云うかも。
でも、覚えてる?貴方が中大生のころ、僕の友達のKさんが、ある日一冊の小型本を
「これ、娘にあげてくれ」と私によこしました。
その本が若い頃探していた、萩原朔太郎の初版本「猫町」だったのです。
私は貴女に手渡しましたよ。
迷い込んだ猫町、よく覚えているよ!でもKさんに頂いた「猫町」が初版だったとは知りませんでした・・・捨てたものが多くて、今更後悔してます。なんてことを!
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