2010年3月30日火曜日

転校生 第3回


 水車が動きはじめると、其処に一人で隠れるようにひっくりかえって居られるほど、私はませた子供ではありませんでした。捜しに来てくれる友達もなく、近所の大人の顔さえも見たこともないわけですから。
        
 しかし、農道から一寸した広場まで出てくると子供でも入れる駄菓子屋みたいな釣り道具屋があるのです。小遣いだけは、母から持たされていましたから地元の子供たちより、いいお客さんだったはず。そのお店に気軽に出入りし、おじさんとも顔見知りになり、買い食い、釣り竿の道具一式を買わされ、赤っぱや、青はや、鮒釣りまで指導をしてもらい、何曜日には、ここで待ち合わせ川釣りに出かける約束さえもできました。

 四月はもう半ば過ぎ。桜も散れば、学校の行事も収まり、私も来月から転校生として、その門をくぐらなければならない筈。東京の学校でも、団体でするスポーツも、野球ですら手を出すことがなかった私。そんな一風変わった男の子が、どんな扱いをされるのか・・・彼らより私は一年留年してきたわけでそれほど不安はありませんでしたね。

つづく

         

2010年3月29日月曜日

転校生 第2回

 この村には水道の設備が有りません。野猿峠の山裾に寄った林を見上げる一画にある農家です。裏に回ると、岩肌から流れ落ちる水をためるように岩を彫り込んだ小さな洞窟が唯一の水源地なのですね。
 周りをセメントで固め、甕を据え柄杓が差しこまれていて、炊事、洗濯もそこで出来るのです。

 家は、山裾ですが幾分高台になっていて、南口正面の門構えに寄りかかって下を見渡せます。桑畑の中央を農道がバス通まで幾分広く伸びていて、後は多摩丘陵にかこまれた寒村。一時期、新聞などで、無医村と取り上げられたことなどがありましたよ。 
 
 この環境に慣れるまで私はまだ今度の学校に登校してはいませんでした。先ず興味を持ったのは、水車小屋です。幅50、60センチ程の小さな小川に掛けられた水車。小屋の中は、臼が四つ据えてあり、臼の上に杵が横棒に垂直に吊るされてあるだけ。人がいるのを見たことがありません。でも、せき止めてある水路の水が流れだすと、小屋の中が、あの杵がガッタン、ガツタンと働きはじめるのです。 

つづく    

2010年3月27日土曜日

転校生 第1回


 南多摩郡 柚木村に私が預けられることになりましたのが小学六年生のときでした。前の尋常小学校に在籍していた時、背が低く整列は先頭が決まりでした。当時も、小学校も中学校も、勿論義務教育です。でも私は進学出来なかった事情を抱えていたのです。 それは、結核。検査にひっかかって、多分、母の希望と私立中学に行かせたかった担任とのなんらかの話合いが 田舎の学校に六学年をもう一年留年させるということになったのです。

 柚木村は殆どが桑畑です。農家は蚕糸 サンシ糸業を営み藁ぶき家の中の二階に、敷きわらの上に桑の葉を
敷きつめ、蚕を育てているのですね。初めての夜は、蚕が桑の葉を食べるその音に、なにを二階で飼っているのか。。。寝付けませんでした。

 昼間人気のない時を見計らって覗いて見ることにしました。二階と云っても階段五、六段の棚、敷き藁が二十枚位を敷きつめたところに桑の葉が盛り上がるように敷きつめてあります。そこで、初めてみたのが白い親指位の芋虫、蚕、カイコです。
 口の周りと云ううか、顔の部分が茶いろの皮で蔽うわれている。四回の脱皮をし成長し、絹糸を吐いて
繭を作るのだそうです。この村、畜蚕チクサンと機織りハタオリで 生業ナリワイの生活をしている寒村なのです。 

 そこの主人が、今度世話になる、北野の小学校の教頭先生です。家族に娘が三人、母親は、おかみさんと云う感じの人でした。

つづく

2010年3月22日月曜日

貴女への弔歌


 たまたま新聞の訃報で知りました。
 
 畑中更予さんに初めてお目にかかりましたのは、私がまだ三十歳頃、アテネフランセに通学していた頃、同じ教室の女性、Mさんがそのきっかけを作りました。その女性Mさんは中学の絵の教師。私より一つ二つ上の家柄を思わせる上品な、私にとって初めて知る年上の女でした。畑中更予さんのお話をするには、どうしてもここを通らなければなりません。 

 御存じのように、畑中ご夫妻はオペラ歌手でいらっしゃいます。お住まいは当時荻窪にありました。Mさんとも同じ中央線ですので、私とは何時も一緒に帰る仲。新宿は何時も二人で歩くpromenade、何を喋っても飽きず、休む店は、新宿風月堂、中村屋、長引く時はクラッシック喫茶でしたね。たまに、伝票が見当たらないとレジで言われました。「お隣の方がお支払いにならましたが。」

 そんな年月のある日、私はMさんの家に招待されました。家の場所は、勿論夜遅くなればその前迄送るのですからよく承知しています。彼女の母の品定め、と云うか、年下の画学生みたいな若者が、何処まで、何を考え我が家の娘が、亦、情けない!と、思いがあった事と思います。

 たまたまそのお屋敷で紹介されました。Mさんの家を半分お借りになっていらしゃる畑中更予夫人との出会いなのでした。

 しなやかな肢体、大人の雰囲気をさりげなく身に付けた動作。矢張り何者かと思わせるものは、芸術家ならではあらわせないお人ですね。

 そのころ、私達仲間、同年代で、毎月何らかの作品を持ち寄って一冊の文集と云うか、絵、詩などをまとめた小冊子を回覧していました。それに載せました私の詩を大変気に入ってもらいまして、そこで3人で、詩人の話で盛り上がり、それから、リルケの話に、彼女はため息をつくほどの熱のいれかたでした。私もリルケの窓は、絶品です。それに堀辰雄の日本語役は傑作だとおもいます。

 そんな彼女のために「オッフェリヤ」と云う詩を書きました。どなたかにお渡ししたか、何回目かにあの広間で会ったは知りません。でも、その詩は読んでいただけました。 更予さんが、「この詩私に下さい。」と、云ってくれました。嬉しかったですね。

 でも私、その詩はもう覚えていないのです。わずかに、記憶に残る、最後のフレーズはこんな風に書いたように思います。
    
 更予さん、貴女への弔歌です。

 「流れていけ テームズ川よ アナタの歌声が 消えるまで

  歌声が アナタの歌声が 私の胸に流れるならば」

   
                                         ノブ

2010年3月17日水曜日

トビエイの作品



 私の通院中、ドクターW先生とある日のこんな遣り取りがありました。

 聖路加病院 W先生

 あの頃は検査続きで心身共に辛い時期でした。でもあの病棟で私はあのエイの写真を目にしたのです。どなたのエイの写真かは勿論知る筈がありませんでしたが、壁面に掛けられた額の中に遊泳するあの生き物エイに乗せられるように、癒されるという気持ちを貰ったのです。

 きっと、他の患者さんの方々も同じような気持ちをお持ちになった方々がいらしゃると思います。海の中って、先生、いいですね。後に私はそれが先生の作品と知りました。

 私は着物の古布で魚などをを制作しております。エイの作品も以前熱中して造りましたがまだ未公開なで、先生の写真とここにに乗せますね。お時間がありましたら、私共のブログをご覧頂けたらと勝手なブログでのでの御挨拶です。お写真、ありがとうございました。
  

2010年3月16日火曜日

朝倉響子さんの彫像


 またNIKEのお話です。ナイキの靴の宣伝ではありません。

 中央区には色々素敵な彫像があり、朝倉響子さんの彫像はそのひとつです。まだ娘が自転車の後ろに乗せられるころ、谷中の桜並木を走り、朝倉彫削館の中を遊び回りながら、父、文夫氏の猫の像ばかりの部屋で楽しんだ物でした。

 その頃から父、朝倉文夫氏は二人姉妹の娘たち、彫刻家と舞台装置家 という芸術家一家と印象づけられていましたが。姉、響子さんの幾分絵画的な線をいかした、素敵な彫像が、家から目と鼻の先の散歩道にあるのです。
場所は、新川 住友海上の裏の一寸とした広場。周りを常緑樹に囲われ、お昼時はベンチにお弁当をひろげ、一人ひとりの時間を楽しむ、お仕事から開放された様子が 静けさの中に流れて行きます。皆さん お疲れ様です。暇人の年寄りは、トボトボとリバーサイドの日溜に場所をうつるのでした。
では、また!

2010年3月11日木曜日

蒼い林檎


勝実さま

 貴方達と渋谷の道玄坂 丸山町のお婆さんが一人でいるミルクホールで、
何となく四、五人集まり「青山文学」という同人雑誌を作る編集会議をしましたね。
三号雑誌迄、だしましたっけ。

 あの時、貴方が編集長。私は頼まれて一号誌にカットと詩を載せたようにも思いますが、あの「青山文学」は何処に行ったのでしょう。あの頃が、青春? 文学に熱中、モーツアルトのト短調シンフォニーに惹きこまれ、熱に浮かされ街を彷徨い歩いた時代。懐かしい!

 この歳になり、昔から絵画一筋に、今も個展の案内をくれる、ある女性。
会うのが、複雑な思いで、こんな文章を送りました。
       
 「ジョイスの、ブルックリンの港湾人足の喧騒、
エリオットの荒地第二部
テームズ河の界隈の下町
共通する卑猥さの中に人間関係を、グロテクスの血を流すことによって、
繋ぎとめようとする。
 千葉に十五年住んでみて、卑猥さだけが、人間関係を保つ方法だ。」

と、書いたことがありましたね。

 近頃、マチスの画集を開き、思い出すのですが、「戦後」の荒廃した中で、
当時こんなにも透明な世界があったのかと、ヨーロッパの文明に憧れました。
それなのに今、私の中にあのグロテクスな悼みも、マチスの色彩も、強く心に跳ね返る力で、迫って来ないのは何故だろうー。
 蒼白なセザンヌの林檎だけが、昔と同じように気になるだけです。

 嗚呼、滑稽なことに「人間は考える葦」にすぎないのだ。
カント哲学「我思う故にわれ在り」のパスカル的逆説ですね。

やよ蒼き魔女 恋しかり 冬薔薇
                          ノブ                              

2010年3月6日土曜日

船の守護神


 隅田川に架かる中央大橋対岸は、新川から見て、右側に佃公園、左側に石川島播磨があります。この橋は斜張橋といって、吊橋ではありません。タワーから斜にケーブルを橋桁に留めてあるのです。

 ザッキンの彫像は橋の三分の一の所の橋桁の上を幾分広げそこに安置されてます。メッセンジャーと呼ばれるフランスの帆船の守護をする女神。私見で知るところでは、ギリシャの女神NIKE「二ケ」ともいうようにも記憶します。でもこの像、上流に顔を向けて立ててありますので、上流から下ってくる遊覧船ではこの橋を振り向けない人も、いらっしゃるのではないかと、余計な心配をします。

 三分の一の橋桁を選んだのは、多分船の水路を確保した結果と理解しました。でも橋を渡る人には女神か何かもわからない背中が見えるだけ。この像は船を守る守護神なので、人とは無縁な守護神かもしれませんね!
でもやはりザッキンといえば あの「絵具道具を運ぶゴッホ」ですね!
 
 隅田川もパリのセイヌと友好関係を結んだ印のパリ市の紋章、東京からこの橋をわたる向う岸にパリ広場なる一画があるそうですよ。日本の川にもイルカが遊泳する時代ですから。
 フランスセイヌも、ザッキの船の守護神に見守れて隅田川から帆船で、
ボン ヴォヤージュ!ノブ

2010年3月4日木曜日

文通


The 黒船屋さま

 桜咲いたと都の便りなど名文句がありますが、杖を挽く身には遠い話です。
年寄れば桜咲くのも小煩き
という一休の句の方が愉快です。
 昔は
葉桜や傘で戻りし広小路
と粋になったこともございます。
 複活して来ましたら、またお便りいたします。

Hさま
 一度もお会いできず、もう昔からのお付き合いのように
文通だけでの未だ私の知らない時代が、偲ばれます。
 今は旦那さまと俳句などの交換をさせて戴いております。
               
 -悼む Hさま
 儚儚の夢も重なる冬の雨  
                    ノブ

2010年3月3日水曜日

瓜につめあり爪につめなし木瓜の花


瓜(うり)につめあり爪(つめ)につめなし木瓜(ぼけ)の花

果実は太い幹に直接なります。
昨年漬けた木瓜酒は少し苦味があって大変美味しい出来上がりでした。
今年も綺麗に花が咲いていますね。