2010年3月22日月曜日

貴女への弔歌


 たまたま新聞の訃報で知りました。
 
 畑中更予さんに初めてお目にかかりましたのは、私がまだ三十歳頃、アテネフランセに通学していた頃、同じ教室の女性、Mさんがそのきっかけを作りました。その女性Mさんは中学の絵の教師。私より一つ二つ上の家柄を思わせる上品な、私にとって初めて知る年上の女でした。畑中更予さんのお話をするには、どうしてもここを通らなければなりません。 

 御存じのように、畑中ご夫妻はオペラ歌手でいらっしゃいます。お住まいは当時荻窪にありました。Mさんとも同じ中央線ですので、私とは何時も一緒に帰る仲。新宿は何時も二人で歩くpromenade、何を喋っても飽きず、休む店は、新宿風月堂、中村屋、長引く時はクラッシック喫茶でしたね。たまに、伝票が見当たらないとレジで言われました。「お隣の方がお支払いにならましたが。」

 そんな年月のある日、私はMさんの家に招待されました。家の場所は、勿論夜遅くなればその前迄送るのですからよく承知しています。彼女の母の品定め、と云うか、年下の画学生みたいな若者が、何処まで、何を考え我が家の娘が、亦、情けない!と、思いがあった事と思います。

 たまたまそのお屋敷で紹介されました。Mさんの家を半分お借りになっていらしゃる畑中更予夫人との出会いなのでした。

 しなやかな肢体、大人の雰囲気をさりげなく身に付けた動作。矢張り何者かと思わせるものは、芸術家ならではあらわせないお人ですね。

 そのころ、私達仲間、同年代で、毎月何らかの作品を持ち寄って一冊の文集と云うか、絵、詩などをまとめた小冊子を回覧していました。それに載せました私の詩を大変気に入ってもらいまして、そこで3人で、詩人の話で盛り上がり、それから、リルケの話に、彼女はため息をつくほどの熱のいれかたでした。私もリルケの窓は、絶品です。それに堀辰雄の日本語役は傑作だとおもいます。

 そんな彼女のために「オッフェリヤ」と云う詩を書きました。どなたかにお渡ししたか、何回目かにあの広間で会ったは知りません。でも、その詩は読んでいただけました。 更予さんが、「この詩私に下さい。」と、云ってくれました。嬉しかったですね。

 でも私、その詩はもう覚えていないのです。わずかに、記憶に残る、最後のフレーズはこんな風に書いたように思います。
    
 更予さん、貴女への弔歌です。

 「流れていけ テームズ川よ アナタの歌声が 消えるまで

  歌声が アナタの歌声が 私の胸に流れるならば」

   
                                         ノブ

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