2011年12月3日土曜日

中央区 謎解き宝探しイベント その1


 この謎解き宝探しイベントに参加するきっかけは国外にいる娘からのメールで、86才の私の重い腰を立ち上がらせたのでした。

 なんでも中央区で宝探しをするイベントがやっているそうで、早速、中央区役所に出かけ、その謎の古地図とパンフレットを手にしました。賞金&賞品総額500万円!!
 この謎解きは1stステージと2ndステージの二つがあり、最初のステージを通過しなければ、2ndステージの地図を手に入れることが出来ないのです。

 家内の分と2部持ち帰り、家で見てみると、宝の地図には6箇所の宝のありかが記載されています。3つ以上の宝に記載されたキーワードを報告し、正解ならば、2ndステージ用のの宝の地図がもらえますが、6つ正解しないことには賞金の抽選には入りません。
 コンサートを控えた忙しい家内を巻き込み、私達、家内と二人のコンビは締め切り数日前に迫ったこの宝探しに出かけることになりました。

 歩いて宝を探しに行くのは私。家で考え、行き先を指示するのは家内。アメリリカの娘はインターネットでの謎解きと私の携帯でのナビです。娘の指示は真に正確で、私が迷いどんなに途方に暮れても、まるでビデオ
で見てるように、場所、物を言い当てるのですね。私はその場所に行き、宝箱のキーワードを捜せばよい話。
 でも 私のグチを云えば、東京は今、いたるところ工事で行きどまり。ナビを聞く携帯を持つ手も痺れ、そのうち、携帯は電池切れ。ジ エンドです。 

 私達は中央区の下町の住人なので、隅田川沿いのヒントの隠し何処はすぐひらめくのです。まず出かけたところは佃。

 財宝 五「人と田が一体となりし地で力自慢の漁師たちを探すがよい。」

 地図を持った人が歩いていますが一人で探しているのは私ぐらいです。人の波を追い、みんなが左に曲がれば左へと歩きますが、娘からの電話でどうも方向が違うよう。佃の波除神社はこんなところのあったのですね。宝探しの人は誰もいず、見つけました宝箱!書かれたキーワードは「オオイナル」です。
 宝箱は持ち出されないように紐で結ばれていました。

 波除神社には「さし石」と呼ばれる大きな石があり、それを漁師達が力自慢をして持ち上げたのでした。

2011年11月11日金曜日

秋薔薇


 秋薔薇 拡げて 魅せる 裸身 朽ち

 ある日が好きだ

 過去 未来を 時 と言う空間にある ある日

 借命の暇にも 咲いたバラの花

 それが 確実な 現在 だ

               ノブ

2011年10月18日火曜日

ワシントン ナショナルギャラリーへ行こうよ! その3


 さて そんな事を云ってる暇はありません。多くの人々の立ち止まってる柵の前、ゴッホの自画像です。それもほかの画家と同じように無造作に掛けられておりました。私も傍に寄り、食い入るようにみました。真贋 のことなど云々するつもりなど少しもありません。ゴッホだと思って見入ってるのです。 

 私も厚塗りの油絵をかきます。金がかかります。パレットに生の絵具を絞り出し筆先に乗せ画面に打ち込んでいきます。鼻の頭も唇も点描で押しきっています。でも、私が自分で気になっているある部分?そこだけが点で押しきれていないのです。

 其処は、上部の枠と自画像の頭部のせまいある一点を打ちこむことが出来ないのだったのに違いないと感じ取りました。

 何故?それは頭部の頂点ともいえる有る一点が決められない問題が有ったからだと思います。「セザンヌ夫人」の頭部の絵を知ってる方は「ああ!これはまるで、ピカソの立体画と同じではないか。」と唸った筈です。 多分ゴッホもこのことに悩んだ末に其の狭い一画を、其の頭部と枠の或る部分を点描に抑えず、平塗りの平面にして完了させて、筆を擱いてしまった。と私は感じました。 

 さて、それからまた移動することを余儀なくさせられます。多士済々の絵。よくこれだけの作品を集められたのは、アメリカ大国の財力が物を云っているのでしょうが、でも日本のバブルの絶頂の頃も、或る関西の製紙会社の社長が当時、金に糸目を付けず西欧の絵画を買いあさった話、バブル期が終わり絵の処分を考え、鑑定の結果不幸にも殆ど贋作と言われ、灰にしたとか?よくはしりません。


「赤いチョッキの少年」やっと、おお気に入りのこの絵の前に立つことができました。 この少年をモデルにした同じ構図の絵は4点あるそうです。きくところによると、セザンヌの作品の傑作は殆ど当時大国ロシアに買い込まれたとも聞きます。

 マネのコーナーで私にとっては懐かしいリトグラフを見つけました。喪服を着た女「ベルト モリツ」 リトなので、日本でも複製で三種類はみております。でも、このリトでは喪服と云うイメージが湧きませんね。マネのお知り合いの女の子。当時こんな句を作りましたよ。


「喪の花の ライラック手に ベルトモリツ」

 其のうち、別のコ-ナーである絵をみつけたのです。もしかしたらこれはミステリアスなお話にこだわる私の妄想なのでしょう。その題名は

 「ベルト モリツ」1987年 ペンシルバニアー アメリカ国籍 

 絵はまさしくマネの描いた喪服の女の1872年の作品です。当時この油絵を描いたアメリカの画学生は、 マネのアトリエに出入りできる裕福なアメリカの好青年モデルをしていたベルト モリツさんも、もしかしたらお互い好感を抱いていた。

 彼は、こんな風に 彼女に云った筈です。

 「僕にも マネさんと同じポウズで、油絵を描かせて下さい。」
 「アメリカに 行きましょう  ペンシルバニア 素敵な国ですよ!」
 「貧しい生活は決してさせません。」

 こんな声が聞こえてくるマネの傍に付き添っていた画学生。でもここで私も我にかえります。

「もし彼女が本当のプロのモデルさんだったら?」

 そんな甘いパリ ジェンヌはいるはずがありませんよね。

 みなさん、いつもありがとう。また連れ出してください!

2011年10月2日日曜日

ワシントン ナショナルギャラリーへ行こうよ! その2

「ワシントンナショナル ギャラリィーって何処?アメリカ!え?日帰りで?」
「地下鉄日比谷乗換ですよ。」
「六本木じゃあないんだ。」
「乃木坂です。」

「昔、乃木坂に初めて行った頃は、何もない街で乃木神社を見ただけです。乃木坂辺りではいい男だった と言われたもんだね。」
「いいえ、その歌詞は間違っています。こうです。『それでも乃木坂あたりでは  私はいい女なんだてね』」

「Aさんには かなわないですね!」
「もう、降りますよ。」

 地上に出るまでの階段の長いこと。やっと外に出ましたが、其処はまるでビルの屋上の様です。熱い! 真っ直ぐ数十歩行くと、又、目の前にビルの正面入り口ではありませんか。

「ここが私達の行き先、国立新美術館です。」  

 まだ中には入ったわけではないのですが、国立です。立派な構造を持った建築に違いないでしょう。でも このネーミングの付け方。新装開店の飲食店じゃあるまいし、何世紀も先迄も念頭に美術品を所蔵しなければならない美術館ですよ。名前を付けた役人が自分の生きてる間の矜持だけを念頭に付けた、この国立新美術館。 
 
 まずはこの耐えがたい直射日光から逃れたい。美術館の中に3人ではいりましたよ。私はIさんが買っておいてくれました入場券を渡されていたものですから、外の入場券売り場の長いあの暑い日差しに嘆くこともなく入ることができました。ひとえに彼女のおかげなのです。
 3人は広々としたロビーに満足できました。ロビーにはテーブル、椅子、老人 、若い人、車いすの人、子供達。ここが新美術館!

 先ずは座りましょうと他人を交えず3人だけが勝手に座れるテーブルを見つけ、私が持ってきた『青柳』のロールケーキ、瓦煎餅、珍しく買った金平糖を3人分ぴったりさげてきたのです。あとは水。食べ終われば、後は手洗いに行き、さて打ち合わせです。
 展示場を何時間で出てくること。印象派、其の後の絵画印象派。もし美術誌を何冊も広げて見るように歩きまわったらそれこそ半日は過ぎるでしょう。そこで、決めました。1時間半で出口で待ち合わせ。館内は お互い勝手!各自の好み、お好きなように、印象派 前期 中期 後期と部屋は 右 左 横 と人波に 揉まれ人の列どうりには決して歩きたくはありません。

 6月の何時だったか。私達この3人、ドガ展にもいきまいた。そして何となく不自然に感じたことは、 ドガ セザンヌも印象派の枠に分類されていました。1800年代と言えば半世紀前迄では、未だあのドラクルワーも現存して活躍していました時代です。

2011年9月17日土曜日

ワシントン ナショナルギャラリーへ行こうよ! その1

 1800年代から1900年代にかかる1世期のフランス絵画の印象派と呼ばれた時代を座等したパリ! 私が1900年代の生まれだから、後期印象派から現代絵画に移行し始めたパリ。フランスに行きたしと 思えどフランスはあまりにも遠し。現代みたいに情報文化が世界どこからでも入ってくる時代ではありません。

 当時の巨匠と言われた画家達もほとんど亡くなりました。戦後のアプレゲール アバンギャルドなどの喧騒も何時か収まり、マチス ピカソ ブラックなどが印刷画を通して見れるようになった時の驚き。世の中にはこんな素敵な色彩の世界があるんだ!と目を開かせられました。

 私が未だ25才ごろ。昭和25年の日本にはまだ身に付ける服でも殆ど黒か褐色でした。アテネ フランセの男性英国人教師が言いましたよ。「貴方達は何故、何時も同じ黒、褐色の服をきてるのだ。」と。 
 当時は勿論、誰もが貧乏でした。でも色ものを、着ることなんかが戦時中あるわけがありません。女性はナイロンのストッキング 一枚で身を任せたし、上野の森にいけば、マッチ一本 百円で少女のスカートの中を見せたと噂が広まった時代。私は其のころから、絵画の世界に手をそめたのでした。

 彼は多分、この店の常連。私の連れのことも良く知っている男。私がどこの旅館で働いているかは知らないはずはありません。彼の手は顔面だけを狙って打ってきます。私は間合いを取らせないように前へ、前へ身体を詰め、頭を右左によけながら進むのですが、彼は的確に当ててきます。

「やめろよ。話を聞こう。」

 彼は私を打ち倒そうという気はないのですが、なぶりものにし、恥かしめてやることが目的のようです。このままでは駄目だ。相手の懐に飛び込み、組み合いたい。身体は小さくても組めばかなり自信があります。ドタバタ騒げば店の誰かが止めに入る筈。それで駄目なら、
私の必殺技、指二本 中指と人差し指をつかいます。この指をダランと下げたまま、相手の懐に縋るように、気づかれず、相手の鼻筋に沿うように、其のまま目に突っ込んでやるのです。まあ、目は潰れなくても一時的な失明はする筈。でも、先に彼の手が私の鼻をかすめました、結果は鼻血を出してしまいました。詰まらない処で幕切れでした。

 聞けば、彼は大学のボクシン部で、国対にも出ていた人物でした。次の朝、私は三日の休暇を取っていましたので、誰にも気づかれずに午前十時の上り急行に乗りで東京にきていましたね。目の下に張れが有るため、眼鏡店でサングラスを買いました。 

 こんな話は五十年も前のこと。当時 サングラスなど かけて 街をあるいている人は、 ヤクザ か 映画人ぐらいです。 今回も 美術館へ いつもの彼女たちとでかけるのに、息子がくれたアメリカ製 のサングラスをかけ 、三人で新国立美術館、ワシントン ナショナル ギャラリーに連れて行ってもらうのですよ。道案内役はAさん ですので、こんなわけの分らない話でも 二人には 通じるのです。 

2011年8月21日日曜日

南高橋のいちじく


 南高橋になっているいちじく。
「無花果」 「映日果」 と 書く不思議な字です。

 キリストが暑い砂漠を弟子をつれ旅の途中、ふと見つけたこの木。葉だけは青々しているのに実一つありません。イエスは嘆き、以後、この木には 花は咲かなくても構わない!
 イエスに呪われたいちじく。漢字にはそんな意味が入っているのでしょうか?

   いちじく の花はしらずも 夏の果て       ノブ                                   

2011年8月12日金曜日

横浜「SEA BASS」第2回

 船が沖に出始めると、ここが横浜港なのだと良くわかります。右の方角に、ビルとビルに挟まって高くそびえる尖塔。

「ほあら、あれ、四月に行きましたよね。」

 そうだ。エレベターの料金を取られました展望台です。「みなとみらい」ドガ展の帰りでしたっけ。そのあとまたプーシキン展に行く約束もしましたよ。もう八月です。すっかり忘却していました。

 何故って、五月の大地震、東北地方の大津波。それに娘に呼ばれ、ひとまずアメリカ カリフォルニアに身体一つで一時避難。大自然の事件、人間関係の事件。忘れたいこと、心の痛みも回復したいと願った。そんな事があった時期でしたね。いろんな事を忘れるというのは、わたしが老人ボケだというだけではありませんよ。そんな想いは八十五才のボケも与えられた恵みともいえるかも。
ぼんやり水平線の房総半島を視界から外すと、船はもう船着き場です。

 ビルのテラスから曲線に階段を降した水際に、船客をもう長い列を作って乗船を待ていますよ。降りる人は乗船券は降りる時に、お渡しください。と声を枯らしているのですが、イメルダさん、券が見つからずなかなか出口迄やってきません。

「そんなの、失くしたと言えば、大丈夫!」  

 もう乗船を待ち構えてるところの終わりの一人の船客です。

 船を下りて、地下のビルの階段を上がり、一階の広いロビーは「そごうデパート」の入り口。そこの空間を利用して、出店が出ています。半袖シャツ、四種類だけ。それも五百円。東北津波難民の募金になるそうです。なかなかの私好みのがあったのですが、品切れ。買うのを諦めていたら、Kさんが、

「これ、マスターに買いましたよ。」

 と一枚手に入れることができました。胸に大きく      

 B E L E I V E
 J A P A N E S E     
P O W E R

 と書きこまれていました。今もこのブログを書き込みながら、愛着。Kさん有難うございます。
 そんなところに、イメルダさんが、急ぎでやってきました。

 イメルダさん「マスター、有りました、有りましたよ!マーロウはこのそごうの中の何処かですよ!」
                  
 私「え?店があった!」

 イメルダさん「そうよ。私、其の紙袋を下げている人を見たの。」

 「マーロウ」は、葉山御用邸の山裾にある 宮廷御用達の洋菓子店。そこのプリンがお目当てなのです。私はそのお店にIさんTさんと行った時、横浜にも出店があると聞き覚えが有りました。それで四人は大騒ぎ。

 マーロウは レイモンド チャンドラーの推理小説に出てくる私立探偵です。若い頃からのフアン。此の言葉が耳に残ります。

 『男は 強くな、ければ 生きていけない。  男は 優しくなければ 生きる意味がない』

 先ずはこのデパ地下から四人分かれて捜すこと。これもここに来た遊び心。誰かの声

「ここ!ここよ!」

 そこはショウ ケースが並べられてるだけの店でした。でも並ばなければ買えません。高級感に納められたグラスのプリンです。それぞれ何を 何個お買いになったかは 知らぬ顔の半兵衛。紙袋を下げ、地下鉄「みなとみらい」に乗るだけです。 

 横浜にお住まいのKさんは地下迄お見送り下さいました。階段の上から、私達が見えなくなるまで手を振り別れを惜しんでくれました。K女史、お騒がせ!勝手に呼び出し申し訳有りません。

無事に家に着き今日の報告がてら、家内に聞きました。そう、「SEE BASS」のことです。彼女は植物、魚類については 博識が深いのです。直ぐに解答が出ました。そ=SEE BASSは セイゴ フッコ の事をいいます。Black Bassと云う淡水魚がいますよね。
はい、分かりましたとマーロウのプリンを渡して退散しました。

 みなさん、一日どうもありがとう。またどこかに連れ出してください。

2011年7月30日土曜日

横浜「SEA BASS」第1回

 上り東海道線の9番線でと待ち合わせ。北口の駅前からバスに乗せらました。桟橋のある横浜港、ああ、なんという初夏の晴れやかな水平線と空の青さ。皆さんの気持ちの優しさが風のように明るく包んでくれます。

 女性みなさん、Iさん、Aさん、横浜在住のKさんと横浜に来ました。Kさんの案内がなければ私達、多分、よくは知らないわけではないけれど、随分Kさんの土地勘が私達をのんびり気ままにあそび回らせてくれました。

 私「Kさん、確かこのあたりに紅い靴はいてた女の子の像があった筈だけど?」

探し回りましたがありませんね。Kさんが急いで氷川丸の船舶の傍で、係員のおじさんを捕まえて聞いています。戻って来るなり、云われました。
 
 Kさん「随分前にもう通り来てしまったみたい。戻るのは大変でしょう。何処かこのあたりで何か飲みましょうよ。」

 Kさんは私の携帯で突然、呼び出されのです。もしかしたら何も食べず駆けつけて来てくれたのかも。
 私と残りの二人のIさん、Aさんは昼近く平塚美術館の帰りにIさんの元上司のクマさんに平塚で<ウナギ屋>へ連れてってもらったのです。充分とクマさんに飲み食いさせて頂き、その後たまたま横浜に行くことになり、横浜在住のKさんをお呼びだてしたわけです。クマさんとは平塚でお別れしました。本当に美味いと云えるウナギでした、Kさま、御馳走様でした! 

 そんな事情があり、もうお昼過ぎでも私達は平気なわけです。多分Kさんはお腹もすいていらしゃる筈。彼女達は早速見つけましたね。反対側のホテルのLounge。でもまだ 昼過ぎの1時を過ぎた頃。人が並んで待つています。 でも外で待つよりは中で待つほうが涼しい筈。躊躇わず中で並びましたよ。
 そのうち私達を見たウエイターが寄って来て、「もし、喫煙室でも宜しかったら。」と、店の一番奥の室に案内されました。 私達、誰も煙草を吸う人は居りません。先ずは早く何かにありつければ文句はありいません。でも、周りは喫煙者ばかり。ここには家族連れでははいれませんよね。

 オーダーを取り 私は皆とは別にビールを避け、ジントニック1杯にしようと拘りました。何故て年寄りです。トイレを探すひどい目に逢わずに迷惑をかけたくない思いがあるからです。食べるものも皿一杯に盛られている物は駄目、見るだけで手が出ません。
 一方、女性3人は よく飲み、よく食べています。3人のおしゃべりの会話は、見てるだけで楽しい蘊蓄を傾けた遣り取りで、私も合い間を縫って口を挟んで繋ぎ目役でした。

 喫煙室の隣に座った青年三人は凄いヘビースモーカー。そして話すと云うよりは怒鳴っています。もう出て行きたく彼女達の顔色窺うと、流石Aさん、気づいてくれました。 彼女の「もう 出ましょうか?」 の 一言で三人は立ちあがり、すぐにレジに向かいました。
 気を見るのに敏なのはただの女性達とは違いますね。私は彼女達に御守されて平塚、横浜に連れてこられた老人です。わがままでもいいかと思っている勝手な男です。みなさん、ありがとう。

 港湾の桟橋に行きかけて、何故か氷川丸の船体が気になります。もう十数年前この看板に上がり、何かを飲んでいた頃を思い出します。仙台の津波で日本の原子炉が浸水しこの騒ぎ。氷川丸は今の横浜 観光記念船で人を呼び込んでいます。「昔は昔、今は今」感慨無量の言葉が象徴的で心をゆさぶります。

 Iさんが遊覧船に乗りたいと柵のある桟橋にもう人が並び始めました。何処でチケト売ってるの? 見回したらもうKさんが窓口で皆の切符を買っているではありませんか。

 Kさん「早く、早く、船はもう時間どうりでますよ。」矢張り地元横浜子ですね。遊覧船の横腹に大きく「SEE BAS」と書き込まれてます。海のバスにしては スペルが違う。そんな詮索をしている時間はありません。船板を踏み中へ。私には 行く先きも ただ海をまわって来る観光なのかさえ判然としません。 

2011年7月12日火曜日

皆様へお礼













 35年間営業してきましたThe 黒船屋の閉店に際し、私達そして店のためにたくさんの皆様にお越し頂き、ありがとうございました。

 店は耐震工事のため、取り壊すことになります。店はダンボールだらけ、グラスも酒瓶 も、椅子ももうありません。ガランとした 倉庫となり、もう黒船屋の面影はありません。

 でも皆さんが撮ってくれた写真が集まれば、ああ こんな店だったんだ とわかってもらえますよね!

 開店の時に娘が生まれました。出産のあの日も大変でした。お祖母ちゃんに怒られましたね。

「こんな日に重なるなんて、貴方達 子供の作りかたも 下手なんだからね! 」

 忘れられない 一言です。

 皆様、とっていただいた写真がありましたら、是非、私までメール等でお送りいただけますと幸いです。送付先はこちらまでお願いします。
nobuohorie@gmail.com

 店はなくなりますが、何かの形で人が集まれる場所を持ちたいと思います。ブログは引き続き続けていきますし、私たちは同じ場所に住んでおりますので、誘い出してください。

 ありがとうございました。

2011年6月22日水曜日

「The 黒船屋」閉店のご挨拶

 この度、ご常連の皆様に辛いお知らせをすることとなりました。

 今年の六月末をもって『The 黒船屋』を閉店いたすこととなりました。時代とともにお店の老朽化が進み、大変辛い決断を迫られることになりました次第です。

 思えば開店当時、『黒船屋一代』などと気負って私のプライドを『ザ』に託して名前を付けましたが、今はその『ザ』は涙で濁り、濁点のついた『サヨナラ』の『ザ』です。

 開店より三十五年、皆様には長い間ご愛顧いただきありがとうございました。心より感謝いたします。

                                  平成二十三年五月
                                  The 黒船屋 亭主

2011年5月2日月曜日

船の溜り場


 小さな紙を隠すように持って、万年筆でチョコチョコて描きました船の溜り場です。
 このスケッチは南高橋から 高橋を見通して 葉書サイズの紙に慌ただしく 構図だけを、念頭に描きなぐってきたものです。

 この船溜まりは以前、ハシケ「自分で 漕がなければ動かない船」が親船が引っ張りにくるのをそこで待機し、家族で生活していました。ハシケ船どうし渡り板をつなげ、所謂船上生活者の集まりがあった場所。

 子供達が学校から帰ってきても、我が家の住い、船は戻っていないことは屡です。そんな姿を想いうかべると、 弟達の面倒をみる お姉ちゃんの活躍が瞼に浮かびますね。洗濯 物を紐に吊し、兄弟喧嘩の仲を取り持ったり、お腹のすいた 子供達に どこかに 隠し、仕舞っておいた何かしらの食べ物を分かちあってる姿。

 最近ではそんなハシケを見掛けなくなり、エンジンの親船が亀島川から 本流へ 水門が開くのを待つ 船溜まりです。私の描く絵はそんな思いに混沌と暗くなるのでしょうか。

2011年4月30日土曜日

我が家のつる薔薇

春霞 青葉隠れに 翔ぶは蝶

2011年4月4日月曜日

4月3日 娘の誕生日

 東京は明日は日曜日。あと3時間であなたの誕生日。

 泣き、笑い、怒り、カヤの人生は素敵です。

 お誕生日 オメデトウ

 パパもママも貴女を愛してます

 ママの大好きなバラの季節がやってきます。

 ローズは何処の国へいってもローズです。

 ローズは性愛の女神のアナグラム

 ローズ エロス

 カヤはやっぱりママそっくり

 ママに怒られるとそうおもいます。 
   
 カヤにギリシャ神話の一輪のローズラインをを贈ります。

 トムもカヤの素敵なパートナー。

2011年3月8日火曜日

ママの散歩 - 東京ゲートブリッジ



江東区の若洲から大田区にかかる東京ゲートブリッジ。中央の桁(108M)が繋がりました。橋好きの私は見学がてら若洲の釣り公園へ散歩にでかけました。橋はとても長いけれど、格好は・・・やはり、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジにはかないませんね。この公園、昔、お台場に子供達と釣りや行っていたころのよう皆のんびりと釣り糸を垂らしています。昔のお台場は大きな建物もなくのんびりとしていて潮干狩りができたのですよね。懐かしい思いです。

2011年3月3日木曜日

ジャズクラブ J 最終回

 狭い階段を降りて地下のドアを開けました。まだ照明も暗くしてあり、右手にカンターが据えられ、その横
に素敵な座席がステージを取り巻くように敷きつめてあります。テーブルも放射線状に配置されています。
 未だ開演前のひと時を、OB会のメンバーはひそひそと、笑い声を交え旧交を温めているようです。もうシニアといわれる年代です。

 さて、私達は?彼女はW大卒のジャズ好き。私はと言われると、千葉の観光ホテルでの住み込みバーテンダー。生まれは神田、実家は世田谷。社会の裏側をすり抜け、明日を放棄した生き方を信条に、鴨川、小湊を拠点に18年。ホテルは観光客対象です。休日など取る暇はありません。

 避暑客の客層は東京の人。この東京の文化に接する喜びが有ります。思わぬ人との出会い。私の師とも云うべき山本蘭村氏の言葉「邂逅のごとく人と逢いたい」素敵な言葉です。生まれ育った土地を離れた人には、殊に想いを深くするのでは。こんな想いは、私が30代の若さですので、50年も昔の話。グローバル化した現代、なんの世迷言!のおじさんですね。
 そんな言葉はもう意味がないよ。何処に誰がいても逢いたいと言えば呼ぶことが出来る時空間の世界にいるんだよ。それより、「ここで逢ったが百年目」と言われた方が怖いですね。

 今日、クラブJにやって来たきっかけは、私の細君がまだ若かりし日の二十歳代にドラムをたたくYさんと同じ会社で仕事をしてたのです。その頃、二十歳年下の彼女と私は千葉で知り合いました。彼女の母方の叔母が千葉の土地の人で、私のいたホテルに女友人と二人で滞在し、その叔母に逢いに行くと云う口実?で夏の終わりの海を眺めに来たのでした。何という風流な!

 でも、避暑客のいなくなった秋口の海辺は淋しいものですよ。滞在客もいないし、恋人同士なら、其れもまたいいでしょうが、浜に出ても、テントを張った茶店も、海の見張り台すら片付けられ、高波に打ち上げられた流木がひっそり砂浜に横たわっているだけ。夕方の日が傾けば、茶店も売店もサッサと店をかたずけて帰ってしまいます。

 そんなお二人に私は声を掛けました。「どうですか、お食事が終わりになったら、海ホタルを見にいきませんか?」私は別に下心が有って誘ったわけではありませんよ。海ホタルは夜の海に行けば何処でも見られると云うわけではありません。私も海ホタルの美しいブルーの色には息を飲むのです。波が白く砕ける瞬間、海ホタルがブルーに輝くのです。そこは、「弁天」と呼ばれる磯、岩場のあるところ。私はお二人を弁天までお連れしましたよ。彼女の友達は月明かりの岩場を何だか怖い、と言ってましたが彼女は何故か怖がる様子は有りませんでした。彼女は今でも夏、弁天に行くのが大好きですね。 

 そんなきっかけで私達二人はフレンドリーな付き合いになったのです。私は上京するたびに、八重洲の地下から電話で会社の彼女に電話をかけました。物覚えの悪い癖に電話番号だけは覚えられました。番号の下4桁が2534。言葉では憚るところなのですが、ダイヤルを指で回すと自然と「二号さんよ」と打てるのです。

 彼女の会社は八重南口の通りを渡った直ぐ近くの大きななビル。でも、彼女は何時も私の待つ地下の千匹屋でまで5分と待たせませんでしたね。そして、彼女はもう一人の友達にも必ず連絡をして、会社が引けてからは何時も3人で遊び歩きました。

 彼女は髪の長い「少女」ではありませんが、私の好きな長い髪を垂らしていました。私の実家は世田谷の明大前。彼女は下町娘で隅田川の傍。会社から15分で歩いて来られる距離。町名など云っても分からないと、彼女の方はお見透しだったのでしょう。

 東京にでて来るのは、月に一回。仕入に行く口実を作り、勿論、本当に上野アメヨコでバーのつまみ、レモンなどを送らせ出張費を稼ぎましたね。私の生活といえば、その千葉の町ではお金を使う場所がないのです。遊びは賭けごとだけのヤクザな環境。給料は安くても、上京する時の懐は結構なものでした。明日を持たない男に貯蓄などの概念がないのです。でも、彼女を知るようになり何かが少しずつ、自分が変わってきてると 意識していました。もしかしたら、これを愛と云えるかも。

 彼女を通して会社の忘年会などを自分のホテルに持ち込み、暮れのセールス競争をトップに持ち込んだこともありましたね。そんな忘年会の席上で、私は彼女に会社の上司ともいえる親しい人達に紹介されたのでした。その人達の中に、今このクラブJでドラムを叩いていらっしゃるYさんがいたのでした。

 イメルダさんと珍しくおとなしく、会場のコーナーに席を取り、ジンリッキーなど飲み、少しずつテンションを上げていくのでした。そんな中、後ろの席は殆ど埋められ、隅の私達の横にも若いカップルが座りイメルダさんがテーブルなどを少し譲り合ったり、団員のメンバーも壇上で音合わせがはじまります。平均70代のシニアの方々で、べ-スの方がほかの人より年上で、聞くところによると最近まで大病でどこか手術を為されていて、これが復帰初めての演奏なのだそうです。紹介が彼のところに回りますと、会場総立ちで声が飛び、拍手、拍手の波。親族、友人、ファンの熱い応援。これが同期会をつづけてこられた宝です。

 ピアノから低音部の音がながれます。管楽器の中央の奏者の左右に二人。その後ろがベースを構えた病み上がりの彼、その横がドラムの彼です。家内の何十年前の同僚ともいえるYさん。イメルダさんはカメラを構え、臆せずシャッターを切り始めましたね。私はジャズを聞くタイプではありませんので、その曲が何であれその音の主題に浸っていられれば充分なのです。イメルダさんみたいにこの曲は有名な曲で、曲名はこれこれで何年代の頃の曲と囁かれても、駄目です。偶にトランペットが音を外したなとか、ピアノの左手が附いていけないなど、そんなことは気にはなりません。皆さんは集まる機会も少なく、ご自分で練習したのは2、3日前に楽器の前にやっと立つただけで、今日なのです、とおっしゃっていました。それから演奏の中頃に交代した管楽器トランペットですよね、

 フィナーレはYさんのドラムソロ「チュニジアの夜」モロッコ外人部隊、あのマレーネ デイトリヒを思い起こさせるこの土地の曲名のドラムソロはジャズ音痴の私にも酔うことが出来たのはラム酒を飲んでいたせいだけではありません。Yさんの四十年昔の私の細君達と パーテイーでドラムを叩き、私が其のころの彼女に招待され、会社の会議室で当時流行った「今 洋子」の唄を彼女がステージで振付をして、歌ってくれた時代を思い出しました。シニアの皆さん、昭和は遠くなりましたね。Yさん、ありがとうございました。

2011年2月9日水曜日

ママ体調不良によりお休み

 ママが体調不良のため、今週2月11日の金曜日まではお店はお休みさせて頂きます。早く元気になりますように。来週月曜日からは営業します。

2011年2月8日火曜日

ジャズクラブ J 第3回 新宿御苑からJへ

「横断歩道はここ!パパ、ちゃんと渡るわよ!」 

 車道を出て、右を遠く眺めると、懐かしいあの伊勢丹の字が見えるネオンの看板の灯り。そうか私は新宿駅は左の方向と思って歩いていたけれど、私達はだんだん四谷大木戸の方から入れる御苑裏口の近くに来ているのだ。
 また、私は淀橋にいた頃を思い出します。もう八丁堀の豆まきは終わりましたが、淀橋の鬼王神社の豆まき、甘酒、テント小屋の地獄極楽めぐり。九段靖国神社のお祭り。ここのお祭りの出しものは、あの日の昭和を憧れる懐かしさがあります。

 いくつもテント小屋。其の前の、呼び込みのあの声。あの口上を見上げながら見てるうちに、半日はアッという間に過ぎるのです。口上の合間に、後ろの幕を、チョット引き上げて中を覗かせてくれるのも、わくわくするのです。 
 ロクロックの首の女。そうかと思うと、
「サア、サアーこれは二度と見られない、世にも不思議な大イタチ。見なけりゃ損 ソン。驚かなければお代はいらない!」
 つられて中に入ると小屋をグルリと回れるように、縄で柵が張られていて、真ん中に大きなドラム缶が置いてあり、その上にでっかいまな板が乗っけられてあります。板の上には血糊を思わせる色がベッタリ。
「サア サア、 これが世にも不思議な大板血だよ。」
  
 フランス映画の天井桟敷、犯罪大通り、あの名女優 アル レッテイが見せ物小屋でドラム缶に身を沈めて
水の中に座りこむ姿はまだ絵になりますが、こちらの大イタチは、落語のオチにもなりませんね。
 それでも入場料を払った人達は苦笑いするだけで裏口から、さも面白かったと、見物人の顔を見ながら出て行くのです。靖国神社だもの、だますのも、だまされるのも芸の中さ。

 イメルダは反対側の歩道を歩きながら、ブツブツ云いながらJのクラブを「確かこの辺りに、昔、厚生年金ビルがあった筈・・・」そして一寸その辺で聞いてみます。でも近在の何処のビルも殆ど明かりが点いてはいません。彼女はビルの薄暗い通路から出てくる初老の紳士を目ざとくみつけました。彼女は直ぐ駆け寄っていきました。その人は昔の厚生年金ビルと云う言葉にすぐ反応を示してくれました。それは彼女が記憶してたとは反対の方向を指さしていました。 
「反対側に渡り、あの紅い中華料理の看板の傍にあるはず。」
 男の人の言葉は的確に教えましたよ、と迷いがありません。彼女は納得できず憮然としています。
「嘘よそんな筈絶対ない。あの人私達をからかったのよ。」
 もう先の方に行った人の後を追いかけようとします。
 私「まぁ、急ぐことでもなし、ほら、信号も青だし渡ろう。」
 仕方なく彼女も私と渡ってくれました。女性は強い、いいや、美女は怖いというべきかな。

 7時半開演迄、あと10分です。急がなければ。中華料理店はもう目の先。彼女が立ち止まりました。この地下に、それらしきクラブがあるわ。でもJでは有りません。
 もうひとつ先に私の気になるシャンソン クラブ!気になる二人は下まで降りてしまいました。廊下の壁にはよく見知ったシャンソン歌手のポスターがいくつも貼られ、壁際に置かれたプログラムの案内が積み重ねられてあります。廊下の奥からロングドレスを着、付け髪を垂らした女性、多分ここのシンガーなのでしょう。ドアーの中に消えました。入れ替わりに、ギャルソンが現れ、店の説明、歌手などを説明してくれましたが、時間帯を2時間置きに会費、入場料も違うみたい。とりあえず パンフレトを貰って逃げ出しました。横断歩道を渡りワンブロク捜しましたがJは見つかりません。

 「矢張り、絶対最初捜したところよ。」とイメルダ。又、横断歩道を急ぎ渡りましたね。そしてここはあの初老の紳士に彼女がJの店を聞いたところ。もうここのビルの一画は真っ暗。流石に彼女も
「この表通りは諦め、この先のビルの横町を探しましょう。」と歩きかけた時、ビルの前の駐車場を眺めたら、低い立て札に『Jジャズクラブ』と矢印 が書かれてあるではありませんか!

「パパ、パパ!あのビルの地下の入り口看板にJジャズクラブ!さっきの男の人の隣のビルよ!やっぱり、あいつ私達をからかったのだわ!」

 また、彼女の怒りに火が付きました。 私は、でもこう云う街のビル街は、下町と違って隣同士の付き合いなどないよなと思いつつ、やっと目的のクラブの階段を降りることが出来ました。

 この続きはサンフランシスコの娘のところで書きます!             

2011年2月1日火曜日

ジャズクラブ J 第2回 丸の内線で新宿御苑

 やっと日比谷線を抜け出して丸の内線に移動します。二人の歩く先は何んとなく「犬も歩けば棒に当たる」と云う感じでしたね。
 私は階段を降りると、すぐ左側から入ってきた電車に直ぐ乗ろうとしました。私が今歩いてきた道は、東から西に向って歩いてい来たのだから西に向かって走る電車なら、新宿行きとの思い込みが強いのです。 イメルダさんから声がとびます。        

「それは反対方向に行くわよ!こっち側から乗るの!」

 私には何故か自分が立っている点の地球の平面図が認識出来ません。何故又東へ戻るのか?後でこれも我が家の奥さんに聞かされました。

「丸の内は堀に仕切られた城郭の下を抜ける地下鉄です。唯、真っ直ぐトンネルを掘って行くことなんか出きるはずは無いでしょう。堀に沿って円形に回り道を作らなければいけないの。だから、丸の内線でしょう。」

 なるほど、だから北西へ回っているのか。新宿御苑前はすぐでしたね。でも、新宿と云うイメージは有りません。歩道の灯りも暗く、店の眩ばゆい光も見当たらず、淀橋の小学校にいた頃の、太宗寺付近を思い出していました。ここの仁王様が見たくても、何時も薄暗く、覗く勇気が出ないのです。

 イメルダさんはそんな私の昔の回想など知るよしもなく、どんどん御苑方向に足を伸ばしています。横道に入るとそれなりに店の灯りも人恋しく瞬きます。

 私 「もうJは此の近く?」

 イメルダさん 「そう、もうこの横町を出た通りの向こう側ですよ。でも7時半まで時間が余るわ。ブログに載せる写真をとりながら、何処かのお店で休みましょう。」

 私 「美味いコーヒーが飲めそうなところがいいな。」

 さて、捜すとなるとそんな店は有りません。食べ物屋、あとは飲み屋ばかり。でも横町の角に、外から中の見える明るい店。でも客は誰もいませんね。カウンターの棚を見れば、ここはワインバーですね。でも一応イメルダさんがききます。

「コーヒー飲めますか?」
「コーヒーは飲めますが食事はもう終わりましたが。」
「コーヒーだけでいいです。お願いします。」

 なにはともあれ、コヒーは飲めました。でも、その店はなんとなく奇妙な店。客がこの時間一人もいない、カウンターの中に紅いベストを来たバーテンダーが四人、その奥にキッチンのシェフが一人、顔が見えます。もしかしたら私達は昼の部とこれから夜の部の交代時間に飛び込んだのかも知れません。バーテンはカンターの中では、なにかしら手を動かし客が居なくてもグラスなどふき、動いているものですよ。でもここの四人は前のテーブルを見つめたまま。従業人と云う雰囲気がありません。兄弟、親族の素人ぽい集まり?一寸水を一杯貰い、話しかけてみました。

「店は何時迄開けているんですか?」
「十一時までです。」
「じゃあ、これからですね。」
「もうこれで終わりです。皆、地下鉄に潜り込んでしまいます。この辺を歩く人はカップルだけです。」

 そう云われれば、私達二人もそんなもんかも。昔の赤線地帯から、四谷、大木戸あたりは格好のデートコースだよな。新宿は、歌舞伎町界隈、新宿区役所通あたりしか人は集まらないみたいですね。
 愛称をこめてイメルダと呼ばせて貰うね。

「イメルダ!どっち側にJはあるの?」
「パパ、この携帯ではうまく撮れないから、カメラで撮るよ。そこに立ってこっち見て。」

 Jはその大通を渡れば、右側だと思うけど、ここからが本格的ジャズクラブJを捜すことになるのですが、さて? 

つづく            

2011年1月24日月曜日

ジャズクラブ J 第1回 私のお出かけ付き添い人Iさん

八丁堀から日比谷線、丸の内線で乗り継ぎ、新宿御苑前までと夜の新宿の街へ。何時も何処を歩いているのか無頓着な85才の私と何時も一人で海外に出かけるマダム イメルダと呼びたくなる彼女との珍妙なカップルです。

 平日金曜日の夕方6時。帰宅を急ぐサラリーマンで混む時間帯。イメルダに云われます。「離れないで!」私ば、地下鉄くらい、一人でも乗れるよ、とばかり入口の脇にへばりつきます。

 降りる人と、乗り込もうと待ち構える人の異様な殺気がありますね。私は急ぐわけでもないのですが、自分の小柄な身のこなしで隙間になんなく入り、角の空席に回り込もうとした時、反対側から男性が背中を盾にして、座りこもうとしましたが、私が年寄りと気がついたのか、踵を返してしまいましたので、私も、軽く頭を下げ「どうも。」と云いましたよ。

 イメルダはこっちに目を光らせて監視しています。銀座駅迄は3つ目ですからすぐですよね。でも、人の身体で何処の駅で停まったのか見当がつきません。 東銀座なのか築地なのか見当がつきませんよ。空いてる電車なら慌てることは無いのですがね。イメルダがすかさず云いました。

「次が東銀座、その次ですからね。」

 次の停まった駅の乗客の混雑していること!ここが東銀座。矢張りこの辺も商社街のビルばかりになってるんだなと昔の八丁堀のサリン事件以前のどぶ川の頃を感慨に耽り、席を立ちあがりイメルダの傍にくっつきました。
さあ、この銀座駅で、乗り継ぐ地下鉄線が、銀座線、丸の内線と日比谷線。各種に人々は向うのです。車内から降りる人は、半分はここで降りるのですから、其の人波に巻かれられないわけはありません。

 シヤンソンの歌ではないけど、

「サンジャンの人波に 私は巻かれていた」

 でも、アコーディオンの響きではなく駅構内の案内の甲高い声。英語、中国語、日本語と長々と説明を理解しおうとしても、殆どの人は聞きはしないのでは?

 エスカレーターに向えば、人波に、否応なく乗らなくては、中ほどまで上る中に人も、整然と姿勢を正すことができました。

 そのとき、前で立っていた若い女性がよろめいたたのです。後ろを振り返り、下を向いて何か探してる様子。私もすかさず視線を下に向け、何か固形物があるのに、目を止め、拾い上げました。これ!ヒールの足のカカト。

「あっ、有難う御座います。」

 カカトを手に取り彼女は茫然と、うろたえています。エスカレートを降りても、立ちすくんだまま半ベソをかき、手のひらのカカトを見つめ、泣いてしまうかな、と思わせる若い女の子。その娘が都会子ではなく、地方から来た娘なのは直ぐ分かります。拾い上げた関わりが有るので、私としてはあまり深入りしなように、

「あそこの駅員さんに行ってヒールが折れてしまったのと相談するといいよ。」

と声をかけました。私の後ろにイメルダがいて、すかさず彼女はいいました。 

「そんなの心配することないわよ。一緒に行ってあげるから。いらいしゃい。」

 そして、そのとき、その娘が云う言葉に私はびっくり。

「私、現金がないんです。」

 でも、イメルダは平然としています。

「大丈夫、カードがあれば、其のへんでおろせるから。」

 駅員のところに、その娘を連れて行き、カカトの折れた靴を見せ、この辺のヒールのカカトを直してくれる所を聞き出しています。 駅員が指で改札の外を差し、カードでお金をおろすならこの自販機の横にあります。そんな事云ってるみたい。二人はそこまで行き、何とかお金を下ろしたみたい。
 私、「そうか、そうか、現金がないということは、お金がないんじゃなくて、唯、現金がないと云うことなんだ。」イメルダは娘にあそこだよ、改札でて、すぐそこよ。

 流石、マダム イメルダ。拍手!私が一人でいたら、改札を出て、一緒に靴屋まで行って、多分修理代も払いかねません。

 この事を、2日後の夕方息子が来たので話しました。彼は人の顔をニヤニヤ笑いながら、なにを馬鹿なことを考えてるのと彼の回答は、数学の答えみたいに割り切れていましたね。

 「俺なら、もう片方のヒールのカカトを折ってそのままで歩いて、靴修理に持ていかせますね。ローヒールのつもりなら、いいんじゃない。 修理代は一つも、二つも 値段的に変わらない筈。」
 と、冗談ぽっく言っていました。

 私は、そんな発想が瞬時に出てくる彼の反射神経の答えに、軽く面を取られた気持ちでした。そして、その話をまた後になって、我が家の奥さんに話したところ、彼女の解釈はまた、違いましたね。
    
 「なにを、馬鹿なことを云ってるの。 靴はローヒールでも、ハイヒールでも、カカトがなければ歩けません。スリッパで足を引きずるようなものですよ。」

 やはり、ママ、ごもっともです。

つづく

    

2011年1月19日水曜日

シャンソン 『ナント』


 バルバラの歌うシャンソン『ナント』を私なりに訳しました。

 ナントは、大西洋側のフランス北の町です。父親が勝手に家を開け放し、何年も戻らず、友達も居なくなり 失意のどん底から、何もかも捨て、この昔からのナントの町を捨てて、結婚を決意。
 暗鬱な雨の降る町から訣別を 手を差し延べるひともなく告げる雨のナント。そんな時に父の友人の一人から手紙を届けられるのです。マダム、どうかもう一度ナント迄お戻り下さい。彼は死ぬ前に一目とマダムと御会いしたいと願っています。

 バルバラの暗い歌唱力が、雨のナント町を一層、暗くするのです。このシャンソンは一寸歌えない難しいシャンソンです。

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 ナント
 
 ナントに雨が降る
 手を貸して
 ナントの空は
 心を憂鬱にする

 一年も こんな朝を迎えてしまった 
 街並みも青く塗り替えられ
 停車場の外は もう見知らぬ街
 もう戻る気もなく
 私は旅に出る筈だった
 一通の手紙が 私の足をそこへ向けさせたのだ

 「マダム どうかグランジュウル オー ルー街
 二十五番街にお越しになって下さいませんか
 彼はもう短い命
 貴女に一目とそれが希みなのです」

 何年か共に過ごしたわ 最後の時
 心が締め付けられ
 彼の声が沈黙を引き裂く
 だって 彼はもう私を捨てて出て行ったの
 長い月日何時戻るかと わたし
 仲間達もいなくなり
 そこに取り戻した自分だけがいたわ

 グランジュウル オー ルー街 二十五番街
 ここで過ごした日々
 忘れることは無い
 この廊下の一番奥 あの部屋

 暖炉の傍に座り
 四人の男が立ち上がるのが見えた
 灯りが白く寒々と点り
 礼装をした彼らとは
 言葉を交わすこともなく
 ただの見知らぬ世話人たち
 逢ったことも話したことも無いわ
 でも すごく疲れているんだわ

 共に過ごした日々 
 グランジュウル オー ルー街 二十五番街
 もう決して忘れることは無いし
 もう居ないのだわ あの人

 ほら でもあなたのご存知の物語は残ったわ
 夕べがやって来て最後のお別れ
 浜辺での葬列
 彼は死を望んでいたのかも
 私の微笑を取り戻すこともなく
 闇の世界へ
 さようならも言えず 愛の言葉もなく

 海辺の墓地
 石畳の園に横たわり バラの花に飾られ
 安らかに眠るといいわ 「主よ、主よ」

 ナントに雨が降る
 忘れはしない
 ナントの空は
 心を滅入らせる

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2011年1月14日金曜日

マスター85歳のお誕生日!


今日、1月14日はパパの85歳のお誕生日です。
おめでとう!
これからも元気で長生きしてね!
まだまだやることありますからね!

2011年1月3日月曜日

猪牙船

 その道は、私たち二人が毎月一回は行き来する箱崎の川沿いの社。小さな祠で庭石を倍にした大きさの石に白蛇がとぐろを巻いてこちらを見ている感じの図がらが彫り込んであります。
 石は多分最初からそのような形態をしていたものに手を加えたのだと思いますが、ここに供物をあげお参りにくるきっかけは蛇の大嫌いな彼女が、或る夜、夢で白蛇に巻きつかれ、それも同じ夜に二回も。ショキングな事態に夜就寝に付けません。白蛇に巻きつかれる夢などは昔から縁起の良い夢と言われてる。一度、箱崎に
こう云う社が有るからという切っ掛けがあったのです。 
 心配事、身体の具合の悪い時、何かとここにはお願いに参ります。今では馴れ馴れしく、「じゃぁねー。」なんて、友人に話に行くような親密さで会いに行きます。

 その箱崎の帰り、歩道に張りだした藤棚のある、一階が倉庫に使われてある家が有りました。五、六月は其の下で藤の花を見上げ、しばらく佇み、店の中を覗きこむのは、其の店に古物商の看板が隅のところに、掛けたあるからです。

 でもそれらしきものはどこにも見当たらず、壁面に櫂、櫓、船の部品と思われる厚い板。でも和船は規格品ではありませんね。それぞれ大きさの相異がある筈。其のままでは使えない筈。私の店に沈没船が長年引き上げられずに、流木の様に朽ちる寸前の船尾の部分を潜り、手に入れた私の親しい大工の親方が、店の開店記念にこれを安房小湊から持ってきていただいたものがあります。
 木材は悼んでいませんが、くいこんだあの船釘が赤黒く錆で現物の半分にもやせ細り、板は流木をこのむ好事家が珍重、垂涎の的の無数の虫に細かくつけられた穴、この海の虫の穴の数で流木の価値が決まるといわれています。

 そこにある船具類はまだ新しく、家具類を作るには適していますが、其のままでは何の飾りにはなりませんね。でも櫓は違います。壁、ルームに掛ければ立派な調度品です。ただそんな空間を持った住まいは、下町の平屋家では無理と云うもの。

 下町育ちのカミサン、船のこと、川、橋、橋梁のことなら知らないことがない。反対に山の手しか歩いたことのない私は、橋といえば、お茶の水、聖橋、アーチ橋。若い頃身の軽さを誇って、あのアーチの欄干を歩いて見せていましたよ。

 カミサンの幼児体験に船に対する忘れられない想いが、彼女の父親と深く関わっているようです。私は生前もお目にかかってはおりません。彼女の父親は船乗りで、隅田川の蒸気船を任され、船で就業中、お倒はれになりました。合掌。

 彼女の忘れられない幼い頃、父の船で、隅田川を上下して、初めて見る色々の橋を教えてもらえた事。父の非番の時は稲荷橋下から、箱船、所謂「猪牙」に乗せられ、今はない、石川島播磨の工場の下、船から秋空を眺め、父の漕ぐ櫂。ハゼの釣り糸を垂らし、自分も一丁前の娘気分です。もうこれは一生忘れられない想い出になったはず。

 その緒牙船の櫂が古物商の店で手に入るのかもしれない。そこの店主と話してみたいし、もしかしたらの値段だったならと、その店の前を通るその度に覗くのですが人かげが有りません。

 そんな暮れも押し迫った日当たりの恋しい暮れの最後のお参りに出かけ、いつもとは反対の日当たりの歩道から、チラリとあの倉庫を眺めると、店先で仕事着のおじさんがいるではありませんか。
 彼女は車を確かめ、急ぎ足でその倉庫のおじさんの前に立ち、先ずは話の切っ掛けを話しかけます。

「何を作ってているのですか?」
「植木を乗せる台を作るのです。」
「藤の棚は無くなりましたね。」
「ああ、歩道を汚すからね。」
「以前、ここに和船の櫂が有りましたよね?」
 
 おじさん、少し真剣な顔になりました。

「あの櫂を手に入れたのは、石川島播磨の工場が解体された頃だよな向こうから、邪魔だから貰ってくれといわれたんだよ。」

 彼女も真剣になります。

「それで、あの櫂、三本有りましたよね。どうなったのですか?」
「ああ、あれはね、深川の堀で和船を動かす知人に欲しいと言われ、あげてしまったよ。」
「まだ、猪牙船を動かしてる人もいるんですね。本当はあの櫂が欲しかつたの・・・・」

 其の話をいつの間にか、自転車のハンドルに寄りかかり聞いていました、おじさんの奥さんが、

「それなら、もっと早く話してくれたらよかったのに。」
  
 でも、話はそれで終わりませんでした。 オチがあります。

 彼女は気を取り直し、

「でも頂けたとしても、湊町まで持ち帰れませんよね、大きくて。」
「港町櫂、おいら湊三丁目だからもって行ってやれたのに!あの櫂は大きくて、家で持てあましていたんだよ。」  

 がっかりしたのでした。