2010年1月12日火曜日

貴方の孤独よ 父よ 最終回


 家族が寄り合うことがあっても会話には口を挟む事がない、父と言う言葉。母から父のことは何も聞かされませんでした。

 そんなある日、パパが日本に帰って来る。ママは困惑してるのは明らかです。そして、兄弟、結婚した兄達、皆で話し合いの集まりさえも持つこともありませんでした。Kさんはその後、姿をみせなくなりましたね。もしかしたら、私だけが何も聞かされていなかったのかも。僻みかな。私は良く友人に「俺のところは、まるでカラマゾフの兄弟だからね」と幾分得意げの喋ったりしたもんです。

 パパも自分が買って与えた家なのだからと、戻るのは当たり前の話。でも三十何年、家族と別れ別れの生活を思う時、デラシネ 祖国喪失者の感慨に忸怩たる気持ちが有った筈です。

 男には外出から家に入る時、敷居が高いという意識が有るものですから。昔から「女、三界に家なし」との諺もありますが、男の孤独には、この家とは自分の人生との幻影を見ていたのかも。

 父は確かに家に帰ってきましたよ。私と母と食事のテーブルを囲んだ時の記憶にこんな事がありましたね。
皿に盛られた赤いトマトを、何気なく「そのトマト」と口にし、食べかけた時、父が「それはトマトじゃないトメイトだ」と窘められました。其の日が家にいた幾日目かわかませんが、やっぱり母と、私だけがいたときです。二人は奥の間で口論になり、父が母を中廊下迄引きずるように連れ出してきました。勿論私は止めに入ったつもりが父の足を引っ掛け、父は転んでしまったのです。その時はそれで終わりましたが、後になると、父は兄達に言いふらすのです。「ノブが私を足で蹴飛ばしやがって。俺は転んだんだ。」と。弁解はできません、事実ですから。でもパパが其の時私には老人なのだと、気を使う余裕がありませんでした。今、自分が歳をとり、歳をとらなければ実感できないものだと分かるようになりました。

 ママはパパに「私は、貴方と一緒には住めない。離婚してくれ」と。もつれ話から口論になったのです。母との過去の縺れに付いては一切聞かされていませんが、当時ママが就寝時には枕の下に、夫人用コルトを枕の下に偲ばせて眠りに付いた話には、何か引っかかるものがあります。

 話し合いの結果、父は三男の医者の家へ引き取られ、離婚はせずに別居という形に収まりましたが、七十にもう手の届きそうな父が何を思ったか、ふと、考えます。それはママのことではない。親子という父と子の安らぎ、血の繋がりに自分の孤独を埋めたいと。死んで残せるものだけはママではなく、息子達に~と思っていたとしたら。

 死は何時、何処にでもいた筈。でも、息子を医学の道にすすめさせたかった三男の家で迎えた死は、安らかに死者を眠らせてくれた筈です。

 私は八十過ぎて、父の孤独をわが身に投影し、色々な想いが自らの痛みと重なるのです。
 去年の秋も深まる頃、初めて、父の墓参りに行きました。

   秋桜ことさらならず 父の墓
                            のぶを 

2010年1月11日月曜日

貴方の孤独よ 父よ 第6回 - 戦後の青春時代


 家の横手に回り、濡れ縁の簾越しに声をかけます。「ママ、元気だった?」一番最初に戻れたのは私でした。八月ももう秋口です。あの真っ赤な夾竹桃が季節には無頓着に咲き誇っています。その年の末迄には兄弟四人揃うことが出来ました。
 
 日本の軍部が崩壊し、戦後のデモクラシーの時代が始まります。ママはパパとの連絡を当然喜んだ筈です。家族は揃いましたが、問題はこの住まいが狭すぎること。男兄弟が4人、Kさん、ママで6人が暮らすのですから。
 
 東京への郷愁、女の夢は現実に負けないこと、母はそう思っていたのでしょう。パパとの遣り取りで、何を話したか、私には一言も聞かされていません。でも、長男は聞かされていた筈。一家は世田谷明大前に、百坪の土地、平屋木造家屋に住むことになりました。

 軍部が崩壊し、アメリカンデモクラシー、戦後の幕開けです。長男の兄も、三男の医者も各々の職業に付き、結婚、独立しました。次男の兄は映画の助監督で、殆ど家に戻る事もなくなり、何時か家は以前のようにママと私、それにKさんの3人に。Kさんも前の仕事の保険のセールスに復帰。

 私は小型自動車免許とりましたが、車を運転する仕事にもつけず、ペーパードライバーのまま一度も街を走る事も無く、唯の身分証明書のままです。

 それでも戦後の数年は私の青春を謳歌していましたよ。
 私の師とも云える2人の画家、山本蘭村氏と井上三綱氏。
 有島武郎氏の血を引きつぎ、従兄弟に音楽家である山本直純氏を持つ芸術家一家の山本蘭村氏。
 戦後初めてのアンデパンダ展で、当時世界のイサム野口に見出され、大賞を取った狐高の画家、小田原 入生田の塔頭(たっちゅう)に籠り、絵と絵画の違いを日本の「無」という切り口で平面の向こう側に出た人、井上三綱氏。お二人とも私がこの店をオープンした頃の前後、お亡なくなりになりました。有難うございました。

 吾が師よ、三綱さん、平塚美術館で先生の回顧展、懐かしく拝見しました。でも私を魅了した小品、二つの桃は見つけることが出来ませんでした。そんなことは私が所有している「巻貝の中の牛」と同じように人の目から秘匿されたまま埋もれているのでしょう。

2010年1月10日日曜日

貴方の孤独よ 父よ 第5回

 1941年12月8日、日本はハワイ沖でアメリカと戦闘状態に突入しました。太平洋戦争の勃発です。昭和17年、私は中学3年の17歳の時でした。

 三男の兄貴は、上の兄貴2人が召集を受け軍隊に入った刺激もあったのでしょう。私は兄が秘かに机に向い、血書の嘆願書を破っては認め直しているのを盗み見しました。兄はもう医大を卒業し、医師研究生で石川県の山中温泉町の病院に派遣され直ぐにも行く手筈になっていたのです。軍も医学生の入隊免除は、はっきり認めていました。兄には無念だったことでしょうね。 

 家に残った家族は、またしても、私 ママ Kさん。父親からの送金は閉ざされ、お米も配給制。手に入る限られた量はわずかでした。食料はヤミ米。お金の価値が下がり、農家に買い出しにいっても米をお金では売ってくれません。農家で欲しがるのは、身につけるもの、衣類、履物、とくに着物類は喜ばれましたよ。お米は配給制なので、見つかれば、直ちに没収されます。ママのタンスの中はだんだん空になり。 お米のご飯を口にする事は殆どなくなりました。サツマイモ、グリンピース、大豆などで飢えを凌ぎます。

 そんな頃、Kさんの子供がいつしか転がりこんできました。私より年下で当時12、3才だと思います。ママは此の子を可哀そうなくらい無視した扱いをし、食事も同じテーブルには付かせることはありませんでした。

 そんな家族の人間関係を巻き込み、私は二十歳になり、戦争末期の軍隊に召集されました。前回「サイドカー」に書いたとおりです。
 
 昭和20年8月14日、日本降伏。私はいくらかの給与と毛布、米を支給され、多摩川あたりの仮宿舎までトラックで運ばれ、秘かに解散させられました。駅のあるところまでただ、茫然と歩き、上りの電車に乗り込み、座り込んでいました。車両はすいていました。誰もが俯いて、もう何をする意欲のある顔ではありません。
 
 兎に角、新宿迄戻る事が出来ました。駅のホームは屋根は飛ばされたまま、車両のガラス窓は無く、家畜輸送車のように、板張りです。駅の外は無残な状態でした。ただ一面、焼け野原、建物の瓦礫の山、所々で家を失った人々が、防空豪を利用し、焼けただれたトタンを被せ、豪の外に住居表示を書き記した板を瓦礫の中に埋め込んで消息を確かめあっているのです。これから小田急に乗るのですが、驚きは日本の交通機関が破壊されなかったという現実。それに帰還兵というのか、敗残兵の格好の私。これも現実の出来事。
 
 とうとう原町田です。住宅地は無傷です。家の前で躊躇いがあります。玄関から
入る勇気がありません。私の息子が初めてアメリカ留学した頃、私達夫婦も遊びに行っての帰り、成田空港の検問に札がぶらさがっていました。「エイリアンの方はこちらの入口へ」とあり、何か異様な感慨を持ったことがあります。家の前に立ち、それに似た思いをしました。そこから私は拒否されていましたね。

つづく

2010年1月9日土曜日

貴方の孤独よ 父よ 第4回 - 原町田へ引越し

 私たちの家に出入りするようになったこの男の人、なーちゃんの兄をKさんと書きます。俳号が三文字でKで始まる名前でした。

 その頃、私達家族は世田谷の若林に移り住んでいました。出入りの門の前は路地、周りはすべて畑に囲まれています。買い物はバス通りがすぐなので、渋谷のデパートへ行くのがママの日課みたいでしたね。ママは日本料理も手際は良く、味にううるさい人です。兄達のいるときは、おかずの量、数を私とは分け隔てがあり、ご飯も、2杯以上お代りさせてくれませんでした。夜は九時過ぎまで起きてることは許されませんでしたよ。 
 Kさんが夜も泊っていくようになってからも、それは勿論きちんと守られていました。彼は夕方日の落ちる頃、普通のサラリーマン並みに家に帰ってきます。大きな鞄を提げ片方の手には露天のたたき売りバナナとか、グレイプフルーツを買って来てくれましたよ。それを食事の後のデザートに。父のいないまだ少年の心は喜ばないわけはありません。そんな時、ママの嬉しそうな笑顔が有りました。

 時間どおりに私は奥の八畳の部屋で寝ます。布団が三つ敷かれてあります。右端の私の小さな布団、隣にママの布団、少し離してもうひと組、厚手の布団です。ママは就寝に付く時、必ず大きなハンドバックを私の枕とママの枕の間に立て置いてから寝ました。 

 こんな若林の生活は、支那須事変も長引き、アメリカとの国際情勢が険悪な様相を呈し、東京も火の海になるとの噂に、地方への疎開へと移っていきました。次男の兄にも召集令状がきました。もう女手一つでこの家を支えてはいけない。Kさんが原町田に陸軍の偕行社の住宅を格安で借りられると探して来ました。若林は高級住宅街です。私の通学は遠くても、偕行社は陸軍の家族達の相互扶助会なのです。そこへ入れてもらえるなら「背に腹はかえられぬ」と決断し引越しすることになりました。

 其の時には医学生の三男の兄貴が引越し手伝いに来ました。荷物を整理する事とは、捨てて行くことですね。兄貴と私はママの大事な植木をリヤカーで。兄貴が自電車で引っ張り、私が車を後ろから押すことで、原町田迄を引っ越しました。さて結果はどうなっていたでしょう。植木鉢ごとに薔薇の木。隙間に詰め込んだ鍋、甕。牡丹の鉢も大事にして居ましたね。握り飯、水筒の水。地図は首にぶら下げ。多摩川を超えるまでは、ピクニク気分。そこから先は山あり谷あり、登り坂を自転車では登れません。でも舵をとらなければなりませんよね。交代。私が舵。何回も休み山有れば谷です。  
 
 畑ばかりと思っていたのに、田園があり、そんなところで握り飯を食べました。やっと山道を抜け、広い舗装道路です。これが多摩御陵へ通じる行幸道路。ここまで来れば原町田の外れに出る筈。午後三時に付く予定が一時間遅れています。私も兄もだいぶバテていましたね。小田急の踏切を超え、もう目的地です。
 
 道の両サイドには人家は殆どありません。倉庫、畑がつづいてます。ここで、家族が住むということは、新しい人間関係を形成するということになります。Kさんが父長、ママが母親 私は子供。やくざ映画ではないけれど、「浮世は、義理と人情の板挟み」というやつです。

つづく

2010年1月3日日曜日

貴方の孤独よ 父よ 第3回 - 世田谷若林のころ


 母の生活は父からの送金で賄われていました。当時、為替レートが1ドル365円。ドルで送られてきて円に換金され、手数料を引かれても大金です。一番上の兄貴の5、6年前の初任給が其のころ50円と聞いた時代です。紙芝居が1銭、ベイゴマが2銭、3銭の小遣いです。10銭あれば子供料金で映画館に入れましたよ。これから支那事変が勃発する頃です。
    
 昭和15年、軍に長男が招集されました。支那事変が起きたのです。北支派遣軍として中国に行き現地教育です。私が15歳ですから兄は25歳ですね。兄はこの後、大東亜戦争に突入し一度も内地に帰ることもなく終戦時、新島から帰還したのです。
    
 話が飛びました。つまり、これから終戦まで家族に、父親代わりの長男が居なくなるのです。

 母がある日、私を呼ぶのです。
「ノブ、一寸ここへ座って!」
また、怒られるのか、と傍に寄ると、
「この便箋にパパに手紙を書いて。ママが云うように。」
ママは達筆なのに。私は悪筆で学校でもノートを殆ど取ったことが有りません。この不器用さが今の私の人生を作ったのです。

「パパ、僕、元気だよ。アメリカの絵ハガキ楽しみに待ています。ジャム、ジェリーが大好き。ママが元気がないよ。お金がパパから来ないって言ってる。送ってね。伸夫」

 こんなことを書いた気がします。今から思うと送金事情が、日米関係の悪化と共に為替事情の取り扱いに何らかの取り締まりの目が厳しくなっていると理解出来ました。
     
 私は15歳で青山学院中等部に入りました。次男の兄は大学を出て、直ぐ映画の仕事に入り、家に帰る事もなく熱中し、嵌り込みましたね。三男の兄は医科大学に入り、研修生とて長野の医療機関に住み込む準備を整えている時代でした。 そして家族は?何人?其の後のパパとママのやり取りは知りません。電話も手紙の連絡も、今とは訳が違います。

 私の息子がシアトル大学の留学時代、昼夜反対の時間の連絡に、FAXを購入しました。今でもそのまま使っています。
     
 私が二十歳になるまで、あと5年有ります。この5年、女手一つでの生活を、周りの男性は母をほっとく訳はありませんでした。以前から母の周りに出入りしてた彼。離婚歴のある子持ちの保険会社社員で、大口の官庁の仕事を持つセールスマンで、「海紅」と云う現代俳句の俳壇の同人、筆を持つと逆筆を使い魅力のある字を書きましたね。よく欠席届を書いてもらい、担任の教師にいい字だね、と褒められたものです。
      
 この人の妹さんもよく母の所に現れるようになりました。ママから短歌の指導をしてもらうという事なのです。名前が気に入りましたね。「撫子」なーちゃんと呼んでいました。「大和撫子」女姉妹に飢えていた私は彼女の来る日を待ち遠しく感じていました。私が初めて女性と思った年上の女。私となーちゃん。この人には、色々勉強させてもらいましたね。ことに、文学については、リルケ、オスカーワイルド、フランスの詩人達、マルドロードの詩、随分この年上のひとから吸収させてもらいました。学業そっちのけで学友そちのけで、チャペルの裏の芝生に寝転がり、文庫本を読み漁りましたよ。

つづく

2010年1月2日土曜日

貴方の孤独よ 父よ 第2回 - 淀橋のころ


 母をママと呼んでも、父をパパと呼んだことはありませんでした。ママがアメリカに居た頃、常時眠りに着く時、枕の下に婦人用コルトを偲ばせて眠りに付いたと。これは母の日誌のメモなのか何気なくの拍子に口を付いて出た言葉かそれはもう七十年前の夢物語り。

 父のその後は、数年間、母の口から何も聞かされませんでしたが、何カ月に一回は小包みが届いていましたね。当時の日本は、物資、食料は餓鬼道に落ち込む程飢えて居ました。クッキー、チョコレート、ジャム、ジェリー(これは父が自分でイチゴジャムを作り、保存して置いたものを送ってくれるのです。)後は衣類です。派手なグリーン、ブルー、黄色。冬にはグリーンのコートを人目を憚らず着こんで歩きましいたよ。
     
 或る時、塩鮭の大きいな梱包が届きました。その切り身を何故か直ぐ上の兄貴と、母親が旅行に出かけてる留守、三日間、鮭だけで食事をしていたら、二人揃って体中、蕁麻疹になり 下半身から上半身に駆け廻られた、情けない思い出があります。
     
 そんなことで、父の職業がパン屋さん、ベーカリーをしていると話して貰えました。母への手紙の中に、大事に保存してたお菓子のレシピが入っているようでした。今でもママの作るレモンパイ、ドーナツ、一緒に手伝った日々を数えて、忘れられない味覚です。あれはパパの手掛けたレシビなのでした。

 母は良く引越しをしました。淀橋にいる時だけで、三軒、紙を横に張り、空き家の文字!ひとつ所に住むと目立ちすぎ、噂の種が絶えない。男の出這入り、女手一つの遣り繰りが不自然だ、などなど。

 母は短歌、俳句の結社に所属し、白秋 夢二などとの交流を持ち、男性からは「ローズ夫人」「カナリヤ夫人」などと呼ばれていました。洋装も素敵でしたよ。帽子は勿論、顔に垂らした黒のベール、ハイヒール、目立たない訳がありません。家には書生を置き、外回りの雑用を仕切らせていました。

 淀橋から、逃げ出すように、私達は世田谷に移りました。其のころから、一人の男性が私達の家に頻繁に出入りするようになりました。

つづく
 

2010年1月1日金曜日

貴方の孤独よ 父よ 第1回


「チャタレー夫人の恋人」を書いたD H ローレンスの言葉が、若い頃の記憶に残っています。男親はただ居るのだと、いうことだけで、子共と一緒に居なくても大丈夫なものだと。
細かくは覚えてはおりませんが、人生の手引きに為る暗喩を重ねた神秘的な言葉が、若かった頃の私を惹きつけましたね。  

 私が父の姿と初めて出会った時は小学二年の頃、横浜埠頭に家族一緒に迎えに行きました。私はその時八歳、一番上の兄が十年上です。暁星中学の詰襟を着ていました。私以外(3人の兄)はアメリカ、シアトル生まれです。私は母のお腹の中で海を渡り、東京で産まれました。
    
 つまり、母と父との再会は私達の歳を足すと、八年ぶりということになります。母がもし二十歳の時、海を渡り、数年後兄を産んだとすると・・・此の時の母の歳は三十八前後。父の歳は知りません。

 船が埠頭に着き、乗客が皆でデッキに姿を現します。波止場に輪を囲み出迎えの歓声を上げています。下船が始まったのです。「あそこだ!」と兄が手を振ります。小柄な人です。当時日本では見かけないパイプを咥え、中折れ帽子にロイド眼鏡。

 どういう訳か、此処からの記憶がまるでないのです。家族で出向かいに行ったと思っていたのに次男、三男の影がまるで消えています。もっと不可解なのはその日、父が何処に泊ったのか、母と父の姿が並んだ映像も何処かに消えてしまって居るのです。
    
 ただ一つ記憶あるのはあの匂いです。パイプの匂い、葉巻の煙です。これは一人で家に居る時、一番上の兄の書斎を開けた時、応接間のソファーに寝ころがった時、ふっと嗅ぐのです。
    
 それっきり、父とは一度も顔を合はせたこともありません。母をママと呼んでも、父をパパと呼んだことはありませんでした。

 ママがアメリカに居た頃、常時眠りに着く時枕の下に婦人用コルトを偲ばせて眠りに付いたと。これは母の日誌のメモなのか何気なくの拍子に口を付いて出た言葉なのかもう七十年前の夢物語り。

 つづく