母の生活は父からの送金で賄われていました。当時、為替レートが1ドル365円。ドルで送られてきて円に換金され、手数料を引かれても大金です。一番上の兄貴の5、6年前の初任給が其のころ50円と聞いた時代です。紙芝居が1銭、ベイゴマが2銭、3銭の小遣いです。10銭あれば子供料金で映画館に入れましたよ。これから支那事変が勃発する頃です。
昭和15年、軍に長男が招集されました。支那事変が起きたのです。北支派遣軍として中国に行き現地教育です。私が15歳ですから兄は25歳ですね。兄はこの後、大東亜戦争に突入し一度も内地に帰ることもなく終戦時、新島から帰還したのです。
話が飛びました。つまり、これから終戦まで家族に、父親代わりの長男が居なくなるのです。
母がある日、私を呼ぶのです。
「ノブ、一寸ここへ座って!」
また、怒られるのか、と傍に寄ると、
「この便箋にパパに手紙を書いて。ママが云うように。」
ママは達筆なのに。私は悪筆で学校でもノートを殆ど取ったことが有りません。この不器用さが今の私の人生を作ったのです。
「パパ、僕、元気だよ。アメリカの絵ハガキ楽しみに待ています。ジャム、ジェリーが大好き。ママが元気がないよ。お金がパパから来ないって言ってる。送ってね。伸夫」
こんなことを書いた気がします。今から思うと送金事情が、日米関係の悪化と共に為替事情の取り扱いに何らかの取り締まりの目が厳しくなっていると理解出来ました。
私は15歳で青山学院中等部に入りました。次男の兄は大学を出て、直ぐ映画の仕事に入り、家に帰る事もなく熱中し、嵌り込みましたね。三男の兄は医科大学に入り、研修生とて長野の医療機関に住み込む準備を整えている時代でした。 そして家族は?何人?其の後のパパとママのやり取りは知りません。電話も手紙の連絡も、今とは訳が違います。
私の息子がシアトル大学の留学時代、昼夜反対の時間の連絡に、FAXを購入しました。今でもそのまま使っています。
私が二十歳になるまで、あと5年有ります。この5年、女手一つでの生活を、周りの男性は母をほっとく訳はありませんでした。以前から母の周りに出入りしてた彼。離婚歴のある子持ちの保険会社社員で、大口の官庁の仕事を持つセールスマンで、「海紅」と云う現代俳句の俳壇の同人、筆を持つと逆筆を使い魅力のある字を書きましたね。よく欠席届を書いてもらい、担任の教師にいい字だね、と褒められたものです。
この人の妹さんもよく母の所に現れるようになりました。ママから短歌の指導をしてもらうという事なのです。名前が気に入りましたね。「撫子」なーちゃんと呼んでいました。「大和撫子」女姉妹に飢えていた私は彼女の来る日を待ち遠しく感じていました。私が初めて女性と思った年上の女。私となーちゃん。この人には、色々勉強させてもらいましたね。ことに、文学については、リルケ、オスカーワイルド、フランスの詩人達、マルドロードの詩、随分この年上のひとから吸収させてもらいました。学業そっちのけで学友そちのけで、チャペルの裏の芝生に寝転がり、文庫本を読み漁りましたよ。
つづく
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