
家族が寄り合うことがあっても会話には口を挟む事がない、父と言う言葉。母から父のことは何も聞かされませんでした。
そんなある日、パパが日本に帰って来る。ママは困惑してるのは明らかです。そして、兄弟、結婚した兄達、皆で話し合いの集まりさえも持つこともありませんでした。Kさんはその後、姿をみせなくなりましたね。もしかしたら、私だけが何も聞かされていなかったのかも。僻みかな。私は良く友人に「俺のところは、まるでカラマゾフの兄弟だからね」と幾分得意げの喋ったりしたもんです。
パパも自分が買って与えた家なのだからと、戻るのは当たり前の話。でも三十何年、家族と別れ別れの生活を思う時、デラシネ 祖国喪失者の感慨に忸怩たる気持ちが有った筈です。
男には外出から家に入る時、敷居が高いという意識が有るものですから。昔から「女、三界に家なし」との諺もありますが、男の孤独には、この家とは自分の人生との幻影を見ていたのかも。
父は確かに家に帰ってきましたよ。私と母と食事のテーブルを囲んだ時の記憶にこんな事がありましたね。
皿に盛られた赤いトマトを、何気なく「そのトマト」と口にし、食べかけた時、父が「それはトマトじゃないトメイトだ」と窘められました。其の日が家にいた幾日目かわかませんが、やっぱり母と、私だけがいたときです。二人は奥の間で口論になり、父が母を中廊下迄引きずるように連れ出してきました。勿論私は止めに入ったつもりが父の足を引っ掛け、父は転んでしまったのです。その時はそれで終わりましたが、後になると、父は兄達に言いふらすのです。「ノブが私を足で蹴飛ばしやがって。俺は転んだんだ。」と。弁解はできません、事実ですから。でもパパが其の時私には老人なのだと、気を使う余裕がありませんでした。今、自分が歳をとり、歳をとらなければ実感できないものだと分かるようになりました。
ママはパパに「私は、貴方と一緒には住めない。離婚してくれ」と。もつれ話から口論になったのです。母との過去の縺れに付いては一切聞かされていませんが、当時ママが就寝時には枕の下に、夫人用コルトを枕の下に偲ばせて眠りに付いた話には、何か引っかかるものがあります。
話し合いの結果、父は三男の医者の家へ引き取られ、離婚はせずに別居という形に収まりましたが、七十にもう手の届きそうな父が何を思ったか、ふと、考えます。それはママのことではない。親子という父と子の安らぎ、血の繋がりに自分の孤独を埋めたいと。死んで残せるものだけはママではなく、息子達に~と思っていたとしたら。
死は何時、何処にでもいた筈。でも、息子を医学の道にすすめさせたかった三男の家で迎えた死は、安らかに死者を眠らせてくれた筈です。
私は八十過ぎて、父の孤独をわが身に投影し、色々な想いが自らの痛みと重なるのです。
去年の秋も深まる頃、初めて、父の墓参りに行きました。
秋桜ことさらならず 父の墓
のぶを
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