
家の横手に回り、濡れ縁の簾越しに声をかけます。「ママ、元気だった?」一番最初に戻れたのは私でした。八月ももう秋口です。あの真っ赤な夾竹桃が季節には無頓着に咲き誇っています。その年の末迄には兄弟四人揃うことが出来ました。
日本の軍部が崩壊し、戦後のデモクラシーの時代が始まります。ママはパパとの連絡を当然喜んだ筈です。家族は揃いましたが、問題はこの住まいが狭すぎること。男兄弟が4人、Kさん、ママで6人が暮らすのですから。
東京への郷愁、女の夢は現実に負けないこと、母はそう思っていたのでしょう。パパとの遣り取りで、何を話したか、私には一言も聞かされていません。でも、長男は聞かされていた筈。一家は世田谷明大前に、百坪の土地、平屋木造家屋に住むことになりました。
軍部が崩壊し、アメリカンデモクラシー、戦後の幕開けです。長男の兄も、三男の医者も各々の職業に付き、結婚、独立しました。次男の兄は映画の助監督で、殆ど家に戻る事もなくなり、何時か家は以前のようにママと私、それにKさんの3人に。Kさんも前の仕事の保険のセールスに復帰。
私は小型自動車免許とりましたが、車を運転する仕事にもつけず、ペーパードライバーのまま一度も街を走る事も無く、唯の身分証明書のままです。
それでも戦後の数年は私の青春を謳歌していましたよ。
私の師とも云える2人の画家、山本蘭村氏と井上三綱氏。
有島武郎氏の血を引きつぎ、従兄弟に音楽家である山本直純氏を持つ芸術家一家の山本蘭村氏。
戦後初めてのアンデパンダ展で、当時世界のイサム野口に見出され、大賞を取った狐高の画家、小田原 入生田の塔頭(たっちゅう)に籠り、絵と絵画の違いを日本の「無」という切り口で平面の向こう側に出た人、井上三綱氏。お二人とも私がこの店をオープンした頃の前後、お亡なくなりになりました。有難うございました。
吾が師よ、三綱さん、平塚美術館で先生の回顧展、懐かしく拝見しました。でも私を魅了した小品、二つの桃は見つけることが出来ませんでした。そんなことは私が所有している「巻貝の中の牛」と同じように人の目から秘匿されたまま埋もれているのでしょう。
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