私たちの家に出入りするようになったこの男の人、なーちゃんの兄をKさんと書きます。俳号が三文字でKで始まる名前でした。
その頃、私達家族は世田谷の若林に移り住んでいました。出入りの門の前は路地、周りはすべて畑に囲まれています。買い物はバス通りがすぐなので、渋谷のデパートへ行くのがママの日課みたいでしたね。ママは日本料理も手際は良く、味にううるさい人です。兄達のいるときは、おかずの量、数を私とは分け隔てがあり、ご飯も、2杯以上お代りさせてくれませんでした。夜は九時過ぎまで起きてることは許されませんでしたよ。
Kさんが夜も泊っていくようになってからも、それは勿論きちんと守られていました。彼は夕方日の落ちる頃、普通のサラリーマン並みに家に帰ってきます。大きな鞄を提げ片方の手には露天のたたき売りバナナとか、グレイプフルーツを買って来てくれましたよ。それを食事の後のデザートに。父のいないまだ少年の心は喜ばないわけはありません。そんな時、ママの嬉しそうな笑顔が有りました。
時間どおりに私は奥の八畳の部屋で寝ます。布団が三つ敷かれてあります。右端の私の小さな布団、隣にママの布団、少し離してもうひと組、厚手の布団です。ママは就寝に付く時、必ず大きなハンドバックを私の枕とママの枕の間に立て置いてから寝ました。
こんな若林の生活は、支那須事変も長引き、アメリカとの国際情勢が険悪な様相を呈し、東京も火の海になるとの噂に、地方への疎開へと移っていきました。次男の兄にも召集令状がきました。もう女手一つでこの家を支えてはいけない。Kさんが原町田に陸軍の偕行社の住宅を格安で借りられると探して来ました。若林は高級住宅街です。私の通学は遠くても、偕行社は陸軍の家族達の相互扶助会なのです。そこへ入れてもらえるなら「背に腹はかえられぬ」と決断し引越しすることになりました。
其の時には医学生の三男の兄貴が引越し手伝いに来ました。荷物を整理する事とは、捨てて行くことですね。兄貴と私はママの大事な植木をリヤカーで。兄貴が自電車で引っ張り、私が車を後ろから押すことで、原町田迄を引っ越しました。さて結果はどうなっていたでしょう。植木鉢ごとに薔薇の木。隙間に詰め込んだ鍋、甕。牡丹の鉢も大事にして居ましたね。握り飯、水筒の水。地図は首にぶら下げ。多摩川を超えるまでは、ピクニク気分。そこから先は山あり谷あり、登り坂を自転車では登れません。でも舵をとらなければなりませんよね。交代。私が舵。何回も休み山有れば谷です。
畑ばかりと思っていたのに、田園があり、そんなところで握り飯を食べました。やっと山道を抜け、広い舗装道路です。これが多摩御陵へ通じる行幸道路。ここまで来れば原町田の外れに出る筈。午後三時に付く予定が一時間遅れています。私も兄もだいぶバテていましたね。小田急の踏切を超え、もう目的地です。
道の両サイドには人家は殆どありません。倉庫、畑がつづいてます。ここで、家族が住むということは、新しい人間関係を形成するということになります。Kさんが父長、ママが母親 私は子供。やくざ映画ではないけれど、「浮世は、義理と人情の板挟み」というやつです。
つづく
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