2010年1月2日土曜日

貴方の孤独よ 父よ 第2回 - 淀橋のころ


 母をママと呼んでも、父をパパと呼んだことはありませんでした。ママがアメリカに居た頃、常時眠りに着く時、枕の下に婦人用コルトを偲ばせて眠りに付いたと。これは母の日誌のメモなのか何気なくの拍子に口を付いて出た言葉かそれはもう七十年前の夢物語り。

 父のその後は、数年間、母の口から何も聞かされませんでしたが、何カ月に一回は小包みが届いていましたね。当時の日本は、物資、食料は餓鬼道に落ち込む程飢えて居ました。クッキー、チョコレート、ジャム、ジェリー(これは父が自分でイチゴジャムを作り、保存して置いたものを送ってくれるのです。)後は衣類です。派手なグリーン、ブルー、黄色。冬にはグリーンのコートを人目を憚らず着こんで歩きましいたよ。
     
 或る時、塩鮭の大きいな梱包が届きました。その切り身を何故か直ぐ上の兄貴と、母親が旅行に出かけてる留守、三日間、鮭だけで食事をしていたら、二人揃って体中、蕁麻疹になり 下半身から上半身に駆け廻られた、情けない思い出があります。
     
 そんなことで、父の職業がパン屋さん、ベーカリーをしていると話して貰えました。母への手紙の中に、大事に保存してたお菓子のレシピが入っているようでした。今でもママの作るレモンパイ、ドーナツ、一緒に手伝った日々を数えて、忘れられない味覚です。あれはパパの手掛けたレシビなのでした。

 母は良く引越しをしました。淀橋にいる時だけで、三軒、紙を横に張り、空き家の文字!ひとつ所に住むと目立ちすぎ、噂の種が絶えない。男の出這入り、女手一つの遣り繰りが不自然だ、などなど。

 母は短歌、俳句の結社に所属し、白秋 夢二などとの交流を持ち、男性からは「ローズ夫人」「カナリヤ夫人」などと呼ばれていました。洋装も素敵でしたよ。帽子は勿論、顔に垂らした黒のベール、ハイヒール、目立たない訳がありません。家には書生を置き、外回りの雑用を仕切らせていました。

 淀橋から、逃げ出すように、私達は世田谷に移りました。其のころから、一人の男性が私達の家に頻繁に出入りするようになりました。

つづく
 

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