2010年1月10日日曜日

貴方の孤独よ 父よ 第5回

 1941年12月8日、日本はハワイ沖でアメリカと戦闘状態に突入しました。太平洋戦争の勃発です。昭和17年、私は中学3年の17歳の時でした。

 三男の兄貴は、上の兄貴2人が召集を受け軍隊に入った刺激もあったのでしょう。私は兄が秘かに机に向い、血書の嘆願書を破っては認め直しているのを盗み見しました。兄はもう医大を卒業し、医師研究生で石川県の山中温泉町の病院に派遣され直ぐにも行く手筈になっていたのです。軍も医学生の入隊免除は、はっきり認めていました。兄には無念だったことでしょうね。 

 家に残った家族は、またしても、私 ママ Kさん。父親からの送金は閉ざされ、お米も配給制。手に入る限られた量はわずかでした。食料はヤミ米。お金の価値が下がり、農家に買い出しにいっても米をお金では売ってくれません。農家で欲しがるのは、身につけるもの、衣類、履物、とくに着物類は喜ばれましたよ。お米は配給制なので、見つかれば、直ちに没収されます。ママのタンスの中はだんだん空になり。 お米のご飯を口にする事は殆どなくなりました。サツマイモ、グリンピース、大豆などで飢えを凌ぎます。

 そんな頃、Kさんの子供がいつしか転がりこんできました。私より年下で当時12、3才だと思います。ママは此の子を可哀そうなくらい無視した扱いをし、食事も同じテーブルには付かせることはありませんでした。

 そんな家族の人間関係を巻き込み、私は二十歳になり、戦争末期の軍隊に召集されました。前回「サイドカー」に書いたとおりです。
 
 昭和20年8月14日、日本降伏。私はいくらかの給与と毛布、米を支給され、多摩川あたりの仮宿舎までトラックで運ばれ、秘かに解散させられました。駅のあるところまでただ、茫然と歩き、上りの電車に乗り込み、座り込んでいました。車両はすいていました。誰もが俯いて、もう何をする意欲のある顔ではありません。
 
 兎に角、新宿迄戻る事が出来ました。駅のホームは屋根は飛ばされたまま、車両のガラス窓は無く、家畜輸送車のように、板張りです。駅の外は無残な状態でした。ただ一面、焼け野原、建物の瓦礫の山、所々で家を失った人々が、防空豪を利用し、焼けただれたトタンを被せ、豪の外に住居表示を書き記した板を瓦礫の中に埋め込んで消息を確かめあっているのです。これから小田急に乗るのですが、驚きは日本の交通機関が破壊されなかったという現実。それに帰還兵というのか、敗残兵の格好の私。これも現実の出来事。
 
 とうとう原町田です。住宅地は無傷です。家の前で躊躇いがあります。玄関から
入る勇気がありません。私の息子が初めてアメリカ留学した頃、私達夫婦も遊びに行っての帰り、成田空港の検問に札がぶらさがっていました。「エイリアンの方はこちらの入口へ」とあり、何か異様な感慨を持ったことがあります。家の前に立ち、それに似た思いをしました。そこから私は拒否されていましたね。

つづく

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