2009年12月29日火曜日

サイドカー 後編

 私は何処にいる?此処は何処だ?

 井戸の後ろ、山道を登る入口から先は、兵隊が隊を組んで登る事はできません。この山の上に入隊して、後で解るのですがあの井戸の貴重な水は兵舎まで分隊ごとに運び上げ上げるのです。勿論、米、高粱米、労働力は私達新兵です。
 
 サイドカーの少尉は私を此の隊の曹長に引き継ぎを終え、私に言葉をかけてくれました。
「ここは、戦場。空襲警報が鳴れば、敵機と戦うのはお前達だ。敵もここを目標に来る。ここは高射砲陣地だ。ここを逃げれば軍法会議。死ねば、戦士として扱われる。」
 少尉は踝を返して戻ります。私は未だ地方人の姿のまま曹長の指示を待ちます。
「おい、お前。お前だ。」
私のこと?そう、まだ名前も階級もない私です。
 
 兵舎の中へ呼び込まれ、上等兵、多分、新兵教育係に引き継ぎされました。先ず、今なら、衣料管理センターと言うのでしょう。そこで官服を与えられます。軍服、下着、軍袴、編上靴、ゲートルなど。軍帽はなく戦闘帽でした。
 
 階級は二等兵なので星マークもありません。これから内務班の兵舎まで引率されるのですが、外は暗く空には星、奇妙なことに行く先と反対の方角に寺らしきものが見えるのです。上等兵はためらいもなく説明してくれます。
「あれはS寺だ。由緒ある寺で、この山の上はあの寺の持ち物さ。軍が間借りしているようなものさ。」
「敵械は、此の横浜から東京湾に向けて侵入する。この山は敵機を仰撃する位置にある場所なのさ。」
ここは横浜!?
「違う!鶴見だ!」
この日が 私の人生に足に入れた第一歩になるとは!  
 
 初めて姿を見せるアメリカB29の姿、空襲警報です!練兵場で軍歌行進の輪を作っていた隊も各自解散、持ち場に走り込みます。
「退避!退避だ!」
 何処からとなく声が飛びます。
「防空豪だ!」
私も目に付いた豪の中に飛び込みます。B29からの焼夷弾の破裂する音だけでは有りません。海上すれすれに侵入してきたグラマン戦闘機の銃撃の音、不思議なことに我が方の高射砲の音も、迎え撃つ銃の音も沈黙したまま。
 
 私はこの戦場の様子を描写する目的ではありません。唯、解って欲しい事は、日本の高射砲では数千メートル以上は弾は届かず、飛行機というもは何時も上空から飛来するものと、下に砲を構える準備を怠っていたのですね。B29は成層圏を飛来して来るのです。 
 
 軍の打つ手は日本の戦闘機で自爆体当たりだけです。空襲警報解除で、被害報告があります。死者の出たのは何と私の一つ前の豪に入った兵隊達です。間一髪で逃れた私の運はこれだけではありませんでした。私の赤紙遅配なのですよ。

 もう戦争末期の内務班は毎日荒れて、退屈まぎれの古参兵の餌食になりなす。誰彼となくやり玉に上がりますが、最後は、軍隊では全体責任をとられます。
「前に伏せ!」です。腕立て伏せですね。古参兵は、「直れ」の号令を掛けることもなく部屋に戻ってしまいます。いつ終わるかも分からない苦痛、誰もが参りますよ。限界を見越して古参兵は入ってきます。腹を付けたまま、「もう駄目」は許されません。そんな何人かは流しに連れて行かれそこで、おなじ号令が掛かるのです。腹が付くと傍らに用おいした熱湯を流すのですね。色々ありますが止めます。これは彼らのお遊びです。要領の悪い兵のの逃げ場は脱走、首吊り。私の班で二人ありました。

 こんな毎日を私は観測兵として訓練を受けました。
 終わりにしたい。戦争も、馬鹿げた遊びもー

 半年経った八月十四日、全て解放されました。その時私は知りました。
 もし、あの時召集令状がまともに届いていたら、先に編成された隊に入り、硫黄島に派遣されるはずだったと。


 最後に鎮護のレクイエムを一句
     
 「昨日ハ 夏ダッタ
         夾竹桃 硫黄島」
         
                ノブ

2009年12月28日月曜日

サイドカー 前編


 昔、この車に乗ったことがありますね、乗ったのではなく乗っけられたのですが。
  
 昭和二十年正月の半ばの頃、当時は疎開して今の町田~原町田に住んでいました。通学は小田急下北沢乗換で井の頭線で渋谷に出ます。青山学院は宮益坂から都電ひと停留所。それを使うことは禁じられていましたが、遅刻を逃れるため、それに飛び乗ったものです。

 もうその頃、学業は殆ど軍事教練に取って替わり、諸先生方も配属将校の顔色を窺うような状態になってきていました。

 そして私たちは、学徒動員で軍事工場に派遣されましたよ。名前を書き込まれたタイムカードを工場に来た日には押すことになりました。製鉄場で、色々な部署で働かされました。大井町のどぶ川沿いを、皆、俯き加減に首を垂れ通勤していた姿が未だ目に焼き付いています。心の中に黒く澱むでいました。

 そんな或る日、私に赤紙と言われる召集令状がきたのです。一週間も遅配されて届きました。これは区役所にある兵役選抜課なるものの怠慢で、郵便局員の故では無いと思いましたよ。

 なにはともあれ、担任の教師に会わなければと工場に行き、そこの事務所で事務をしているKさんのいる受付にまずは行きましたね。その人は年上の女性、口を聞いたこともありません。でも空襲警報が鳴ると、事務員も私たちも地下防空壕の身を寄せ合いB29の遠去かるのを待ちました。何故かそんな時間に心が癒されました。そんな状況で、ひそひそ話は聞こえるものです。何となく私の事を、目つきで 私を指ささしてるのがわかるものです。「あの男の子ね。Kさんがいつも噂しているのよ。」 喋っているのは保検室の婦長を取り巻く女性達、部屋は灯火管制なので薄暗く、婦長の白の制服だけが目に入ります。男性は何かと腹痛 苦痛、頭痛 を口実に数十分の癒しの時間を保健室で盗みます。勿論、婦長もそれは、お見通しなのですね。異性の声、顔を近くで見られるなど戦時中は非国民呼ばわりしかねませんから、若い男女が肩を並べて歩いているだけで交番の巡査に脅かされ、職務尋問された時代でした。

 私は受付ノカンターの前に立っていました。素早く、Kさんがテーブルから立ち上がり、私の目の前にいます。言葉はいりませんでした。 一冊の大木敦夫の詩集を取り出し彼女の手に渡し、呟くように「召集令状がきました。もう会う事は無いとおもいます。」彼女が何を言ったかも記憶にありません。詩集の見開きに誰をともなく書き殴った言葉を見てくれていましたね。「心より心に通ずべし」それは長い時間のようでもあり数分のことであったかもしれません。

 翌日私は六本木の麻布六連隊に出頭し、日時の遅れを係の将校と面接し、報告出来ました。昭和二十年一月半ばの頃です、生年月日が十四日に合わせ赤紙は届く筈だったのが、一週間遅れで配達され、期日に予定された人はこの六連隊に配属されることもなく、もはや私一人取り残され、転属してしまっていたのです。

 有線電話でどこかと将校は連絡を取っている間、私は座る所も与えられず、所謂立ちんぼの状態、頭の中は空っぽ。もう夕闇が迫って、町内会の人達に送られた時、身に付けた国防服の軽装で、風呂敷に包まれた、日の丸の旗、千人針の腹巻き、下着、陸軍歩兵操典などなどを手に下げ、まるで家出少年が途方に暮れている格好を想像して下さい。
 
 やがて一人の少尉が目の前に現れ、衛兵の捧げ銃をしり目に門外に待たしてある一台のサドカーに乗るように指示し、自分は車に跨りエンジンを吹かしているのです。初めて乗るサイドカー。前輪の上に日の丸を差し込み、寛りした隣の座席で私は何処に連れ出されるのか。 小尉は何も喋る様子もなく、任務を遂行する護送官に成り切っていました。もう街の灯りも消えた東京。孤独は私だけではなく暗い家々の窓、ビルの微かに漏れる人の吐息のように、厚いカーテン越しのチラチラ明かり。
 
 時どき列車を右側に並走することで、幾分地理が判然としてきたものの、飲む水もなく、でも姿勢だけは崩すまいとしている私に、少尉は自分の水筒を投げてよこし、顎で飲めと仕草をしてくれましたよ。しばらくして車の速度が落ちてサイドカーが止まりました。小高い山裾で、目の前に井戸があります。「私は何処にいる、此処は何処だ?」

2009年12月22日火曜日

サイドカー

ただ今、原稿書いています。年賀状も書かなくてはならず、まだ原稿が書ききれていませんので、もう少々時間がかかります。ちなみに、娘、明日からラスベガス4泊です。

2009年12月20日日曜日

「メリークリスマス」














「メリークリスマス」

すずかけの破れた枯葉の陰に
垣間見るのは幻の都市
だが、わが幻影の女は言葉の中にしかいない
グッドナイト レイディー
薔薇咲けば泣くことを忘れたオッフェリアよ

ふと、その径の石の中に眼

イスタンブールの地下貯水処に押し込められたメドゥサの首、石柱よ、
ブルーモスクとは 性的な匂ひがす
蒼き魔女、ギリシャに母を殺めたるか

東洋は奈良の都、興福寺
阿修羅王の目にも似たり
グッドナイト スィート レイディー
(だが、男共はされど目を覚しをれ)
グッドナイト
どなたさまも、おやすみなさいまし

 やよ蒼き魔女 恋しけり 冬薔薇
                     ノブ

2009年12月19日土曜日

BARBARA (バルバラ)


 「BARBARA」(バルバラ)はフランスのジャック プレヴェールの「パロール」という詩集に収録された詩のシャンソンです。(「バルバラ」とは女性の名前です。)音楽はジョジェフ コスマで、プレヴェールとは名コンビですので、シャンソン好きの方なら良く知っているはずです。

 ただ、このシャンソンをフランス語で聴いても日本語訳を読んでも、とても心に染み入って聞き入ることはできない失敗作だと私は思います。プレヴェールとコスマのコンビは映画「天井桟敷の人々」で輝くばかりでしたのにとがっかりしています。でも、私はこの詩を読むと感動するのです。これはシャンソンより朗読されることのほうが素敵なのですね。ちなみに、イブ モンタンの朗誦を聞いてそう感じましたね。

 このバルバラの詩のストーリーは「天井桟敷の人々」のシーン「犯罪大通り」に酷似しています。天井桟敷の監督がマルセル カルネで反戦運動を支持していたからでしょうか。

 天井桟敷の男が女にすれ違うシーン、いかにもプレヴェールらしいストーリーと台詞がありますね。一方バルバラは、フランス軍港の街、雨のブレストで一人の退役軍人らしき人物がバルバラとすれ違うところから始まるのです。

 「あの日ブレストは雨だった。
 そう、僕はきっと、シャム通りですれ違った。
 君が微笑んで、僕も微笑んだ。
 覚えているかい、バルバラ
 あの日すれ違った君は微笑んで
 僕は君を知らない
 君は僕を知らない
 あの日のように忘れないで
 雨宿りしていた男が君の名を呼んだ
 バルバラ!
 そう、君は雨の中を走って
 濡れながら、嬉しそうに、華やかに彼の腕の中へ
 覚えているかいバルバラ、あのことを
 バルバラ!
 “君”って呼んでもいいよね
 たとえ一度しか会っていなくても
 覚えているかい、バルバラ」

 天井桟敷では、犯罪大通りの人ごみの中、アルレッティーふんする見世物小屋の女、ギャランスと名優フレデリックがすれ違うシーン、いかにも軟派する男が言う台詞で接近してくる素晴らしい演技の見せどころです。二人が別れるときにギャランスの言う台詞

 「愛する者同士には世界は狭いものよ」

 彼女はさり気なく去っていく。

 バルバラでは、バルバラの恋人と退役軍人を重ねる。退役軍人はバルバラの恋人を見て、昔の自分を回想していた。場面が展開して、バルバラの恋人は戦場の雨の中で這いずり回り、野良犬のように死に行く中、バルバラのことを思い出している。そしてつぶやく

 「おお、バルバラ、なんて戦争なんて馬鹿げているんだ!」

 バルバラは英語ではバーバラですね。でも、この「バルバラ」という言葉、この叫びの中に反戦歌のような響きがあります。

 あのマレーネディートリヒが歌った「リリー マルレーン」(こちらも女性の名前ですね)。いつしかヨーロッパ戦争中、敵味方なく歌われていたというこの歌も、恋人の名、見知らぬ町ですれ違った女の名前であったのに違いありません。その名を呼ぶことによって、ひそかな愛の灯火が灯るのは、この名前の響きによるものだと私は思います。

2009年12月18日金曜日

2代目高尾の句 「君はいま 駒形あたり 時鳥」


毎月末近くに私たち夫婦は某所にある蛇塚にお参りにでかけます。彼女は、足の無い、長い生き物が大の苦手。勿論「蛇」と聞いただけでそういう場所には決して足を向けない人です。うなぎ、どぜうも駄目。
 
 でも、この蛇塚に足を運ぶようになったのは、夜中に夢でうなされ、2回も飛び起きたことが有ったのです。朝になり、その夢の話を聞きました。それは白蛇に体を巻きつかれたという夢、それも二回も同じ夢だったと言いました。私は「それ、縁起の良い夢で心配するこはないけど、一度某所に八大竜王を祀つた社の近くの岩に白蛇がとぐろを巻いた石塚があるから、一度行ってみよう」と誘ったからなのです。何故か、あれほど蛇嫌いの彼女がその小さな祠には躊躇うことなくお参りすることが出来ました。
 
 功徳の話は色々私事に亘ります。高尾稲荷神社はその蛇塚へ行く途中にあります。二代目高尾の碑です。江戸三浦屋抱えの遊女。高尾は初代から前後11人あり、それに纏わる話は、それぞれ陰惨なもので、長唄、清本、また戯作者の演題にもなりました。2代目高尾は容姿端麗、和歌、書を巧みにしたと記されています。私も秘かにその御利益に預かろうと必ず立ち寄る場所なのですよ。その代表句がその神社には書かれています。
 
「君はいま 駒形あたり 時鳥」

 これは高尾の想い人、茂平という男を偲んだ句だとは解りますが、この季語「時鳥」が理解できません。近年、やっと私なりに解った解釈は、この句が古今和歌集 夏-3に乗っている時鳥の本歌取りと納得しました。
 
「時鳥 鳴くや五月のあやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな」 
 
 この「あやめも知らぬ恋」をひきだすためにこの「時鳥」を季語にしたわけね、これがわたしの解釈。あとは識者の見解を待ちます。高尾を懸想した客は指折り数えるほどいましたが、その中に、仙台藩江戸家老がおり、高尾は彼の執拗な落籍を拒み続けたために、彼は屋形船に誘い、屋根の桁に吊るしあげ、首を落とし惨殺しました。首が墨田川支流の人形町に近い旧新堀川、多分今の湊川あたりで拾い上げられ、そこの神社に祀ったのだそうです。入り口にコンクリートにお柱が有り、天辺に歪んだ首のような塊がのせてあります。

 ー私の高尾への追悼句ー
   「花魁や おかえりそばへ 高尾の碑」
                   ノブ

(注)2代目高尾
江戸前・中期の遊女。高雄とも書く。江戸吉原京町1丁目の妓楼三浦屋四郎左衛門抱えで、この名を名乗った遊女は7人(庄司勝富『洞房語園』、原武太夫『高尾考』など)または11人(山東京伝『近世奇跡考』、山東京山『高尾考』など)あったといい、いずれも吉原を代表する名妓として知られ、京都の吉野太夫と並称された。三浦屋ではその代数を数えなかったといい、そのため伝によって代数や通称にも異同が大きい。
仙台(万治)高尾。2代といわれる。歴代高尾中でもっとも知られる。仙台藩主伊達綱宗の意に従わず、隅田川の三又で惨殺されたという。伊達騒動に関係づけられた巷説が生まれ、「伽羅先代萩」「伊達競阿国戯場」などの浄瑠璃や歌舞伎に仕組まれたほか、非業の死を遂げた高尾の亡霊がざんげする趣向は、舞踊劇「高尾物」という系列を生んだ。

2009年12月17日木曜日

厩橋界隈


隅田川を初めて見たのは、私がまだ24、5歳の頃です。世田谷で育ちましたのでいつも私の行動範囲は渋谷、新宿、御茶ノ水でした。御茶ノ水は文化学院、アテネフランスに通っていましたから。O君は文化学院の美術科で知り合った10歳年下の夜間部の学生です。絵の話に共通の話題があり、すぐ親しくなりましたね。彼は50歳過ぎですでに亡くなりました。彼のいつも照れたような笑いが印象的で、あの顔が忘れられません。あの頃の彼は家が厩橋にあり、ライオン歯磨工場があるそばだと聞いたので、一度隅田川に連れて行ってくれと、厩橋で待ち合わせることにしました。さて、世田谷からどうやってそこまでいっていいのやら、私の方向音痴の頭の中には都電の路線が混線しています。彼が言うには、まず、御徒町にでて、都電で一直線なので、それが一番分かりやすい交通手段だと言うのですが、渋谷から御徒町、厩橋へとどう乗り継いでいくのか、心細い限りでした。今となっては、どうやって厩橋まで行けたのか分かりません。携帯もない時代、待ち合わせはどうしたのか、O君が待ち合わせた時間に橋の袂で待っていてくれたのか、何はともあれ、二人は隅田川の土手の草原で、ひっくり返ることが出来ました。当時の川の水は汚水が流れ込み、どす黒くにごり、悪臭が漂っていました。それでも、私たちにはあの戦後の暗い生活に、この隅田川の雰囲気は現代絵画に通じる共感がありましたね。隅田川界隈には粋スジの土地名があり、「葭町」「柳橋花柳界」「大川端」などと、歌謡によく取り上げられる場所ですね。今は私の毎日の散歩道で、隅田川テラスと言い、土手という感じはまったくありません。食事処、ジョギング道、散歩道になっています。

2009年12月14日月曜日

本日の釣果



土曜日の予定であった鯵釣り。相方の発熱で、釣りには絶好の日和でしたが取りやめ。日曜日、一寸肌寒いと思われる午前中の様子は・・・ママ、長い長靴を用意万端。ご機嫌よくお出かけ。午前9時です。私は見送ると、いつものとおり、お茶を飲み、新聞、新聞と探し、「あっ、日曜日はお休みなんだ」と気が付き、薬を飲みまたベットに入りました。

また、昼近くに起き出し、パソコンを部屋の真ん中のテーブルに移動し、いつもママに言われる言葉「パソコンの傍には絶対お茶、水を置かないで!」耳にタコが出来るほど言われるこの言葉に忠実にパソコンのセット完了。さて、あとは娘とスカイプで、私の無為の日曜日。お互いの顔を覗き込みパソコンをつけっぱなしで勝手な話に笑い、二人の井戸端会議。昔のおばさん達と変わりませんね。よく見かける光景、路地の四辻で立ち話をしてるおばさん、挨拶して通り過ぎて、買い物から帰ってきてみると、まだそのままこ1時間以上は喋っていますね。パソコンも井戸端と変わりないようにも思います。でもこちらは便利。ただ、覚えるのに時間がかかりますがね。お互いの映像が画面で動いてるので、一人でいる感じがないのです。

さて、ママはご機嫌で夜7時、36匹の鯵とともに帰宅しました。今日の夕食は、勿論、鯵。献立にすれば先ずはこんな具合です。「あじフライ、あじ塩焼き、あじ刺身、あじサンガラ焼き、あじ干物、あじタタキ」あじづくしです。私は塩焼きです、大きさは小ぶり25cm一寸、小食の私は皿にドーンと盛りつけられただけで、もう食べきれません。でも上品な新鮮な鯵の味、満足しました。 次は干物。これは、娘も知っている絶品です。ママの鯵を堪能しに皆さんも会社の帰りに是非お立ち寄り下さい。  

2009年12月12日土曜日

ママの鯵釣り

ママは昨日から鯵釣りに行くとご機嫌。私が今朝早く起きると彼女は床掃除、雑巾がけなどをして、どこにも出かける様子がありません。「どうしたの?」「やめたの。」「?」「相方が熱で中止。」「解熱剤は飲ました?」「あの人は、色々な病気を持っているので、うっかり薬を飲ませられないのよ。」外の天気は昨日とうって変わって明るく、路地からでも日差しが光って見えます。さて、今日、土曜日、どのような展開になるのやら!

暮れの黒船屋


昨日12月11日は暮れになってやっと忙しい一日でした。女性客が半分入ると、やはり雰囲気が違います。でもうちはほとんどが常連客なのでフリーで来る女性客はいません。また、それがお客同士、気安く会話を楽しめるのです。夜11時に店を閉め、女性たちを駅まで送ります。●●●線とXXX線。●●●駅とXXX駅を往復。良い運動にはなりますが、年寄りの冷や水とも言えますね。来週も女性客の予約あり。まだ、私も捨てたものではありませんね(笑)

2009年12月10日木曜日

枢機卿


 ルーベンスの赤い枢機卿の絵を見ていると、隣で覗き込んでいた女が、突然笑い出した。
「だって、その絵、あなたに似ているんだもの。口元には、少し笑いがあるようだけど、目は笑っていないわ。頭の中には拒否する観念だけがあって、ストレンジャーは受け入れないの。そう、あなたにはもっと他人が必要なのよ。それでいて、あなたはすべてに優しく振舞って見せるのね。もう、私を抱かないの?」
 私は頭を上げた。
「自己紹介をお許しください。私はアカージ イヴァイッチ スビドリガイロフです。」

2009年12月9日水曜日

愛日の路地裏 一寸と 狭き肩


霜月と言う寒い季語も、晩秋の公孫樹の葉が散る銀杏の「黄落」との素敵な言葉に後押しされ、辿りついたわけ。冬は陽の光が畏しく、「愛日」と言う言葉もあります。冬になると陽が降り灌ぐ雲間があれば、勿論人と人の間に愛があるわけだね。

 「愛日の路地裏 一寸と 狭き肩」 のぶ

2009年12月8日火曜日

公孫樹


繚乱と 吹かれるままに 散る紅葉

公孫樹の葉が風に吹かれ繚乱と吹かれるままに散っていますね。此の言葉俳句では「黄落」といいます。素敵なことばです。

2009年12月7日月曜日

12月7日月曜日のメニュー


「サバの味噌煮 大根の煮付け かぼちゃの煮物 厚揚げ焼き 焼きそば あおりイカ 白えび アジのから揚げ イワシの丸干し 塩鮭 ポテトサラダ こんにゃくの煮付け 大根の葉の佃煮 らっきょう しらす干し」
ママが電話でお客さんへ年末の予約確認をしていましたよ。でも今日はどなたがお見えになるか検討がつきません。

2009年12月6日日曜日

12月5日土曜日 黒船屋休日の夕食時


黒船屋休日の夕食時、電話が入りました。「もしもし、これから7人ほどで行くからテーブル開けておいてよ」「もしもし、今日は休日で、いらっしゃっても何もできませんよ」「分かってるよ。泥船ならみんな知っているんだから頼むよ」こんな強引な電話申し込みは私には名前を聞かなくてもすぐ分かります。某社の昔のメンバー。多分、忘年会の流れでもうかなり酔っているはず。ビールかお酒がありさえすればいいのですが、お代を頂くためには、何かしらのセットを出さなければ。まあ、あとは何がなくても、ママに任せることにしましたよ。外は雨。車2台ですぐ来るはずです。

黒船屋のドアの前で数人の人声が聞こえます。雨なので傘と荷物が邪魔しているので入ってくるのが難しいのです。すると、今までカウンターで食事をしていたママが急に立ち上がり、ドアを開け、「あら、皆さん、お久しぶりじゃありませんか!」と愛想良く迎い入れました。流石、長年の水商売、慣れたものです。入り口のすぐ前のカウンターには私が娘とパソコンを開いてSkypeでビデオ電話中だったので、いち早くTさんが、「おお、Kがいるじゃないか!」パソコンを覗き込み、皆をそっちのけに娘と話し始めます。テーブルについても、一人ずつが交代で娘の顔を見ようとパソコンを覗き込み、うれしそうに、場所を離れそうにありません。娘は孫のような子供のような役割でした。中でもこれから出張する方は、娘と英語で話し、娘のことを気に入ってくれた様子。テーブルには何もないとは言え、「かじきの味噌漬け、大根の煮付け、じゃがいものサラダ、鯵の酢の物、こんにゃくの唐辛子煮」お酒は「八海山一升瓶」をテーブルにのせ、勝手に飲み放題。Yさんだけは、いつも一人でビールだけです。全部、お酒を開けてしまいましたので、お開きです。みんなが立ち上がり、財布の紐を広げて、「一人いくらー?」毎度ありがとうございます!その後私は雨の中、皆さんとカラオケへ。帰ってきてK1を見ましたが、疲れてしまい、誰が勝ったのかも分かりませんでしたよ。

黒船屋は週末はお休みです。それでも長年のお客さんがこうやって来てくれるのは、うれしい限りです。また、近いうちにお寄りくださいね。娘もパソコン越しとはいえ、一緒にここに居たようでしたね。

2009年12月4日金曜日

スタンフォード -University Avenue-


スタンフォード界隈~カルチャーセンターを巡る~ 2009年11月
カリフォルニア州スタンフォード地域は、広大な草原と高原に囲まれた大学敷地と高級住宅街です。いつも日本からアメリカに渡ると、まず食べ物の選択に迷います。、シアトルの時もそうですが、大学近郊の学生たちの集まる店に行くことが多いです。気安く入れる値段で、味もあまり裏切られません。息子がワシントン州立大学にいた頃から、その思いが強いのです。

さて、スタンフォードの学生街はどうかと歩いてみました。お金持ちの子女が入る有名大学と聞きましたが、街並みも店並みも優雅で、男女の歩き連れも物静かな雰囲気です。まずはどこか、店に入ってみようと、娘と二人でケーキ屋さんに立ち寄ることにしました。あまり、甘すぎるケーキは御免で、パンケーキみたいなものをと思い、目でショーケースを追い、「あれ!」と娘に指差しました。飲み物はミルクティーです。奥に座っていた一人は、本を読んでいる男性、もう一人はもう食べ終わり、立ち上がろうとしているマダム風なおば様。ちょっと写真を取りたいと、携帯を向けて、娘に止められました。やはり人に勝手にカメラは向けてはだめですね。

ジャンコクトーの映画「オルフェ」のスローモーションで時間を通過する世界を感じます。娘に聞くところにより、ユニバーシティー通りを高速を挟んで反対側は危険なところだそう。「部落みたいなところ?」「そういうわけじゃないよ。こっち側とは生活のレベルが違って、ギャングが多いの。」と言われました。「橋を挟んで文化がまるで違うというのはどこの国にもあるね。」カリフォルニア、シリコンバレーは本で読んだことはあるけれど、なんか世界が違うところみだいですね。

2009年12月2日水曜日

娘 腹痛にて七転八倒 ERへ運ばれる


娘-カリフォルニア時間、夜11時過ぎ腹痛にて七転八倒の状態、近所の大きな病院に行きました。私がメールを受け取った時はたまたまいつもより遅くまで起きていた時だったので、すぐ、メールを読むことが出来ました。電話を持って、寝ていたママを起こし、娘の状況を聞いてもらいました。ママは、自分が色々な病歴を持っているので、人の体のこともよく分かり、こういうとき一番頼りになるのです。娘は母親と電話で話をし、幾分、落ち着いてくれた様子でした。痛み止めのモルヒネの副作用で、吐き気と眠気で、娘はしゃべるのもままならず。電話を切った後、ママは「多分、食中毒でないかな」と言ってまた眠りにつきました。男親の私はだらしなく、こういう状況に狼狽するだけでした。皆さんにちょっとご報告まで。

2009年12月1日火曜日

ムッシュM先生 - 11月18日&19日のラスベガス旅行


ムッシュM先生
ベガスへの旅行をご手配頂き、有難うございました。快適なVoyageを楽しみました。サンフランシスコからのあのイギリスの飛行機会社が作った「バージンアメリカ」も快適に飛行してくれましたね。MGM Garndでのイリュージョンの世界、デビットカッパーフィールドの鮮やかな4次元空間世界は、スパニッシュ系の艶やかな観客女性に支えられ、見事なパフォーマンスで、やはり驚かされましたよ。

でも、カジノはベガスも不況らしく、懐が固く、なかなか遊ばせてはくれませんでした。いったんみんなで、部屋に戻りましたが、私はまだ悔しく「ちょっとカジノに下りるよ」とまたトムと出かけてしまいました。夜中の時間のほうがやはり人は多く、カジノも活気がありましたが、小額のお金で遊べそうなのは、スロットマシンしかありません。「勝負師としては、カードで!」という思いで、つい、空いている席に座ってしまいました。自分では、ブラックジャックの席に座ったつもりが、何かカードの配り方が違っています。私の席は最初の席なのです。まずカードが3枚伏せてまかれました。何をしていいか分かりません。女性のディーラーが指で「ここにチップを置くように」と仕草で教えてくれるます。テーブルの上に3箇所、円形の白い印があり、それがどうもチップを置くところみたいでした。最初の円の上にチップを置きゲームに参加できるようです。それからがまた分かりません。配られたカードを開こうとすると、手で止められてしまいました。みんなが揃ってからカードを手に取るようにと理解しました。チップを置く円がまだ2箇所。これはどうするの?と顔をしかめながらカードを開くと、カードはすでに配られた3枚で終わりみたい。私なりに理解し、手を見るとバラバラの手で、何をするか分かりませんが勝負にはならないと理解して、カードを開きDoneです。カードとチップはすぐディーラーが引き上げ、私の顔を見て、「日本人?」と「そうだよ」「英語分かるの?」「分からないよ」テーブルのほかの客も不思議そうにこちらを見ています。英語も分からない日本人がカードができるのかという顔でした。1、2回やっているうちに勝負師の勘が戻りました。まず参加料のチップを置き、カードをもらい、みんなが配り終えてからカードを開き、掛け金を置き、それから勝負の金額を吊り上げていくのです。つまり3枚カードのポーカーみたいなものでした。3枚でハイカードが1枚あれば、勝負が出来ます。数字が揃えばストレート、マークが揃えばフラッシュ。覚えてしまえば、いつの間にか勘が戻り、チップが山になってきました!

調子に乗って勝負をしているとトムが後ろに来て、もう止めて行こうというので、しぶしぶトムと部屋に戻りました。眠っている娘を起こし、勝ったお金を渡しましたよ。
こんな話ーなんの話にもなりませんね。