2009年12月29日火曜日

サイドカー 後編

 私は何処にいる?此処は何処だ?

 井戸の後ろ、山道を登る入口から先は、兵隊が隊を組んで登る事はできません。この山の上に入隊して、後で解るのですがあの井戸の貴重な水は兵舎まで分隊ごとに運び上げ上げるのです。勿論、米、高粱米、労働力は私達新兵です。
 
 サイドカーの少尉は私を此の隊の曹長に引き継ぎを終え、私に言葉をかけてくれました。
「ここは、戦場。空襲警報が鳴れば、敵機と戦うのはお前達だ。敵もここを目標に来る。ここは高射砲陣地だ。ここを逃げれば軍法会議。死ねば、戦士として扱われる。」
 少尉は踝を返して戻ります。私は未だ地方人の姿のまま曹長の指示を待ちます。
「おい、お前。お前だ。」
私のこと?そう、まだ名前も階級もない私です。
 
 兵舎の中へ呼び込まれ、上等兵、多分、新兵教育係に引き継ぎされました。先ず、今なら、衣料管理センターと言うのでしょう。そこで官服を与えられます。軍服、下着、軍袴、編上靴、ゲートルなど。軍帽はなく戦闘帽でした。
 
 階級は二等兵なので星マークもありません。これから内務班の兵舎まで引率されるのですが、外は暗く空には星、奇妙なことに行く先と反対の方角に寺らしきものが見えるのです。上等兵はためらいもなく説明してくれます。
「あれはS寺だ。由緒ある寺で、この山の上はあの寺の持ち物さ。軍が間借りしているようなものさ。」
「敵械は、此の横浜から東京湾に向けて侵入する。この山は敵機を仰撃する位置にある場所なのさ。」
ここは横浜!?
「違う!鶴見だ!」
この日が 私の人生に足に入れた第一歩になるとは!  
 
 初めて姿を見せるアメリカB29の姿、空襲警報です!練兵場で軍歌行進の輪を作っていた隊も各自解散、持ち場に走り込みます。
「退避!退避だ!」
 何処からとなく声が飛びます。
「防空豪だ!」
私も目に付いた豪の中に飛び込みます。B29からの焼夷弾の破裂する音だけでは有りません。海上すれすれに侵入してきたグラマン戦闘機の銃撃の音、不思議なことに我が方の高射砲の音も、迎え撃つ銃の音も沈黙したまま。
 
 私はこの戦場の様子を描写する目的ではありません。唯、解って欲しい事は、日本の高射砲では数千メートル以上は弾は届かず、飛行機というもは何時も上空から飛来するものと、下に砲を構える準備を怠っていたのですね。B29は成層圏を飛来して来るのです。 
 
 軍の打つ手は日本の戦闘機で自爆体当たりだけです。空襲警報解除で、被害報告があります。死者の出たのは何と私の一つ前の豪に入った兵隊達です。間一髪で逃れた私の運はこれだけではありませんでした。私の赤紙遅配なのですよ。

 もう戦争末期の内務班は毎日荒れて、退屈まぎれの古参兵の餌食になりなす。誰彼となくやり玉に上がりますが、最後は、軍隊では全体責任をとられます。
「前に伏せ!」です。腕立て伏せですね。古参兵は、「直れ」の号令を掛けることもなく部屋に戻ってしまいます。いつ終わるかも分からない苦痛、誰もが参りますよ。限界を見越して古参兵は入ってきます。腹を付けたまま、「もう駄目」は許されません。そんな何人かは流しに連れて行かれそこで、おなじ号令が掛かるのです。腹が付くと傍らに用おいした熱湯を流すのですね。色々ありますが止めます。これは彼らのお遊びです。要領の悪い兵のの逃げ場は脱走、首吊り。私の班で二人ありました。

 こんな毎日を私は観測兵として訓練を受けました。
 終わりにしたい。戦争も、馬鹿げた遊びもー

 半年経った八月十四日、全て解放されました。その時私は知りました。
 もし、あの時召集令状がまともに届いていたら、先に編成された隊に入り、硫黄島に派遣されるはずだったと。


 最後に鎮護のレクイエムを一句
     
 「昨日ハ 夏ダッタ
         夾竹桃 硫黄島」
         
                ノブ

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