
昔、この車に乗ったことがありますね、乗ったのではなく乗っけられたのですが。
昭和二十年正月の半ばの頃、当時は疎開して今の町田~原町田に住んでいました。通学は小田急下北沢乗換で井の頭線で渋谷に出ます。青山学院は宮益坂から都電ひと停留所。それを使うことは禁じられていましたが、遅刻を逃れるため、それに飛び乗ったものです。
もうその頃、学業は殆ど軍事教練に取って替わり、諸先生方も配属将校の顔色を窺うような状態になってきていました。
そして私たちは、学徒動員で軍事工場に派遣されましたよ。名前を書き込まれたタイムカードを工場に来た日には押すことになりました。製鉄場で、色々な部署で働かされました。大井町のどぶ川沿いを、皆、俯き加減に首を垂れ通勤していた姿が未だ目に焼き付いています。心の中に黒く澱むでいました。
そんな或る日、私に赤紙と言われる召集令状がきたのです。一週間も遅配されて届きました。これは区役所にある兵役選抜課なるものの怠慢で、郵便局員の故では無いと思いましたよ。
なにはともあれ、担任の教師に会わなければと工場に行き、そこの事務所で事務をしているKさんのいる受付にまずは行きましたね。その人は年上の女性、口を聞いたこともありません。でも空襲警報が鳴ると、事務員も私たちも地下防空壕の身を寄せ合いB29の遠去かるのを待ちました。何故かそんな時間に心が癒されました。そんな状況で、ひそひそ話は聞こえるものです。何となく私の事を、目つきで 私を指ささしてるのがわかるものです。「あの男の子ね。Kさんがいつも噂しているのよ。」 喋っているのは保検室の婦長を取り巻く女性達、部屋は灯火管制なので薄暗く、婦長の白の制服だけが目に入ります。男性は何かと腹痛 苦痛、頭痛 を口実に数十分の癒しの時間を保健室で盗みます。勿論、婦長もそれは、お見通しなのですね。異性の声、顔を近くで見られるなど戦時中は非国民呼ばわりしかねませんから、若い男女が肩を並べて歩いているだけで交番の巡査に脅かされ、職務尋問された時代でした。
私は受付ノカンターの前に立っていました。素早く、Kさんがテーブルから立ち上がり、私の目の前にいます。言葉はいりませんでした。 一冊の大木敦夫の詩集を取り出し彼女の手に渡し、呟くように「召集令状がきました。もう会う事は無いとおもいます。」彼女が何を言ったかも記憶にありません。詩集の見開きに誰をともなく書き殴った言葉を見てくれていましたね。「心より心に通ずべし」それは長い時間のようでもあり数分のことであったかもしれません。
翌日私は六本木の麻布六連隊に出頭し、日時の遅れを係の将校と面接し、報告出来ました。昭和二十年一月半ばの頃です、生年月日が十四日に合わせ赤紙は届く筈だったのが、一週間遅れで配達され、期日に予定された人はこの六連隊に配属されることもなく、もはや私一人取り残され、転属してしまっていたのです。
有線電話でどこかと将校は連絡を取っている間、私は座る所も与えられず、所謂立ちんぼの状態、頭の中は空っぽ。もう夕闇が迫って、町内会の人達に送られた時、身に付けた国防服の軽装で、風呂敷に包まれた、日の丸の旗、千人針の腹巻き、下着、陸軍歩兵操典などなどを手に下げ、まるで家出少年が途方に暮れている格好を想像して下さい。
やがて一人の少尉が目の前に現れ、衛兵の捧げ銃をしり目に門外に待たしてある一台のサドカーに乗るように指示し、自分は車に跨りエンジンを吹かしているのです。初めて乗るサイドカー。前輪の上に日の丸を差し込み、寛りした隣の座席で私は何処に連れ出されるのか。 小尉は何も喋る様子もなく、任務を遂行する護送官に成り切っていました。もう街の灯りも消えた東京。孤独は私だけではなく暗い家々の窓、ビルの微かに漏れる人の吐息のように、厚いカーテン越しのチラチラ明かり。
時どき列車を右側に並走することで、幾分地理が判然としてきたものの、飲む水もなく、でも姿勢だけは崩すまいとしている私に、少尉は自分の水筒を投げてよこし、顎で飲めと仕草をしてくれましたよ。しばらくして車の速度が落ちてサイドカーが止まりました。小高い山裾で、目の前に井戸があります。「私は何処にいる、此処は何処だ?」
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