2010年1月31日日曜日

猫町


 「猫町」は萩原朔太郎が世田谷下北沢界隈で横町に入り込み味わった奇妙幻想の感覚を書いた小説ですね。
私の少年時代は代沢、若林、明大前に住でおりましたので下北もよく知っております。
 友人とよくこの本を探して神田辺りの古本屋を歩きました。でも詩集は有っても、この本は奇観本でなかなか手に入らないよといわれました。
 「どうしても、欲しければ奇観本専門のあの店に行って御覧なさい。」
 有りました。それも初版本。結局手が出ませんでした。

 私達の時代はそんな文学的耽読時代ではありません。学業そっちのけ、軍事工場に強制派遣の日々です。青山中等部卒業まじか、赤紙がきたのでした。その話は、「サイドカー」で詳しく話しましたよね。
 そしてAvant-garde の時代も戦後apres’,gurreの狂騒的な東京も収まり、私は三十を過ぎ、東京を離れ、地方に十数年過ごしました。その後、結婚し、店を持ったのが、この町鉄砲洲界隈。息子、娘の二児の父。
 
 子供は直ぐ大きくなるものです、着る物は勿論、足、履物をいいものを買っても靴から、足がはみ出します。私の兄弟は四人で、兄貴の娘が着古したコートを息子にもってきてくれました。でも色が赤く男の子にはどうかとも、私達親は思うのですが子供は得意になって着ていました。
 
 そんな事をしているうち、息子は自転車を乗りたがります。四つ年下の娘はパパの自転車の後ろの席。これがきまりになりました。土、日はこのあたり隅田川下流は車量が殆ど走らなくなります。散歩とか、自転車とか、好きなところまで走れるのです。昔のお台場は一寸遠くになりますが、半日遊んでいても、飽きないところでした。携帯もない時代、子供の帰りを心配しているお婆ちゃんとママ。私も漕ぎ疲れるのですが、息子も泣きごと一つ云わず小さな自転車を走らせます。お台場から晴海埠頭、勝どき橋までくれば、もう家迄すぐですが。其処までの直線道路は倉庫街、休日閉店の店、変化がないし飽きてしまいます。今のように自動販売機など見当たらない時代。道端で座り込む外はない情けない姿。
 娘が私に「パパは何故、橋のところに来ると早く走るの?」私も咄嗟に説明が出来ず、「橋の入口が坂だから一生健命走るからだよ」ちゃんと説明が出来なかったことが残念でしたね。
 
 そんな思いで、夏と共に日々は去って行きました。子供の進学は親からの自立。アルバイト、勉学、恋愛に近い友達付き合い。夜は何時帰るかもわからない危険な関係。
 私は昔からの夜更かしが身に染みついて夜中の三時過ぎ迄も起きているので、店のテーブルの前でテレビをみながら、好きなことしていました、娘などは遅く帰ってきて、私の前に座り込み 勝手なこと喋ると、「もう疲れた、寝る、パパ、早く寝たら。」
 そうかと思うと、「銀座まで、自転車で迎いに来て!」さすがに、「助けに来てくれ!」はありませんでしたが。

 色々思い出しますが、やはり娘の小さい頃自転車の後ろに乗せ遠出した時の失敗談。
 上野谷中の朝倉彫朔館迄、京橋の首都高下、昭和通を真っ直ぐ御徒町に出れば、後は目と鼻のさき。しのばずの池を動物園裏の鴎外記念通りの坂を登り、この向こうの坂に猫坂が有るんだけど、と話ながら横の路地を抜けだし谷中一丁目に出たいと、ペダルを踏みこんでいると、娘が
「パパ、先きと同じところを走しているよ!」
よく見ると、同じ場所みたいです。車を止めて、一休みです。
「また、猫町に入いちゃったか?」「ここに、猫いないよ。」娘が云います。
そうなんです、何時も良く知ってる場所、町でも反対の方角から入ると、まるで違う場所に立っている気分になるみのです。唯の錯覚なのです。朔太郎の猫町とはちがいます。でも、私は娘と出かけると、よくこんな迷い道に入ってしまうのです。で、何時もいわれるのです。また、猫町に入った、と。
 
 今、娘はそんなこと有ったけ。と云うかも。
でも、覚えてる?貴方が中大生のころ、僕の友達のKさんが、ある日一冊の小型本を
「これ、娘にあげてくれ」と私によこしました。
 その本が若い頃探していた、萩原朔太郎の初版本「猫町」だったのです。
私は貴女に手渡しましたよ。

2010年1月27日水曜日

北条秀司の句碑にて


 北条秀司の句碑 
 「雪ふれば 佃は古き 江戸の島」   
 新橋演舞場で演じられた「佃の渡し」の最終公演を終え、この碑の立ち上げに二人して出向かれたと聞きます。如何にも劇作家らしい句。みなさん御承知のことと思います。

 私の店にかけてある 五所平之助の句、映画監督であり、春灯を主催しました久保田万太郎氏などと活躍しました俳人、この句も如何にも、映画監督と思わせる作品です。

 私の兄が、東宝映画時代から助監督をしておりましたので、開店のお祝いにいただいた作品、その時先生は私にこう聞いたのでした。 
「どういう俳句が欲しいですか?」
私は躊躇いはありません。「黒船屋」と屋号を付けた以上、答えは、大正ロマンの雰囲気のある句が欲しい。先生は開店にあわせてご自分で板に漆を塗り、黒地に白で書いていただいた句。カメラから覗いたワンカットそのままの俳句です。

「ふる雪が 別るるひとの  瞳にも降る」 平之助

五所亭さん。活動屋という人種の仲間は、こんな呼び方をしますね。
 平之助さんは、「一寸何か書くものない?」と、色紙でなくても気楽に句をお書きになり、署名は五と云う字がお好きで、色々な形で丁寧な署名を入れられました。
  
 私が北条さんの句碑の前に立って、この二つの句を紹介したくなる気持ちが多分分かっていただけたものと思います。 
 五所さん、アデイユー ボンボアイヤージュ! では、さよう、ならば! 
 
 私の店から、佃島、ああ、もう島ではありませんよね。歩いて橋二つ渡れば二、三十分で戻れます。普段の日でも、ある晴れた日でも気持ちの揺れるままに歩るいてきます。佃大橋から回るか中央大橋から出かけるか、陽がまだ西に傾かなければ、中央大橋です。
 
 佃大橋からの階段を登る際、目に着くのが佃の渡しの跡を記した記念碑です。これを横目でちらっと、捨て目を遣い橋桁を登ります。ふと、思うのです。
「渡し船が有る島なら島のどこかに、渡船宿が何処かにあっても可笑しくはないはず。」
たまたま、今日、身体のバネが良いので、町の周辺を当てもなく歩きました。でも、ない!ないのですね。

 家に戻り、下町育ちの家内に尋ねました。答えは簡単明瞭でしたね。云うには、 
「佃は流人を寄場人足として流した場所でしょう。旅館なんか有るわけないでしょう。」
 なるほど、でも釈然としません。新派でも、映画でも、島に渡り愛人同士が悪天候のため、船が出ず、宿に泊りこむはめになるストーリー。あれはやはり映画の話なのか?でも石川島はそうでも、佃職人がいた町には旅人宿位有る筈だと思うのですが。サンフランシスコのアルカトラスの監獄みたいな、島なら別だけどさ

2010年1月26日火曜日

南高橋 みなみたかばし なみだばし?




 開店当時、こんなご挨拶を送りました。
 「東京の街にも、まだ下町情緒を残した一角が残っております。
 隅田川のポンポン蒸気の音が聞こえて来るような路地裏に、小さな店。
 どの方角からきても、ああ、こんな橋が在ったかと、郷愁を誘うのでは。」

 今、川は暗渠となり、橋も撤去され、そんな橋何処にあったの?仲の橋、入船橋、稲荷橋、采女橋、万年橋、きりがありませんね。中央区首都高の下は川でしたものね。築地河岸だけでなく、浅利河岸が京橋のところにあった表示もあります。

 よく、ぼんやり歩いていると、尋ねられるのですが、橋の名前などは、困った事もありました。其の人が「たかばし」はどっちの方でしょう?たかばしとだけ云われても、三か所あります。深川にも、新川にも。越前堀の橋、新川は南高橋です。尋ねられた場所が何処を選んでもその丁度中間地点でしたからなのです。そんな話も昔話ですよ。

 でも、橋には何時になっても因縁話みたいなものが残るものですね。南高橋(みなみたかばし)を構築した時の話を、私の家内から、聞きました。
 この橋梁は、両国橋を解体した時、中央区でその部品を払い下げを引き取とったと。この「み/なみた/かばし」雨などで曇る夕暮れ時、石の標識はこんな風に読めるのです。「なみだ橋!」
 
 家内とこの橋は頻繁に渡ります。ある日、湊町から新川方面へとこの橋の左側の袂に差しかかった夕暮れ時、彼女が私の歩くのを止め右側の橋の袂を指さします。
 「見えるでしょう、後ろ向きに川を見下ろしてる女の人!」
私は誰か知てる人かと、見るのですが、見えません。車も少ない日曜日なので、で、反対側に渡り前方に目を遣りますが誰もいません。彼女が傍にきて
 「今、見たでしょう!」
いや、何も・・・
 こんな話は息子と家内との間では、平気でやり取りが通じるのです。二人にはよく見えるらしく、
「今日何処かで、葬式がない? 角に居たでしょう。」
「見えた!見たよ。」
 二人には何か見えるのです。でも、南高橋は袂の橋桁から右側の川を覗いても亀島川の水門だけしか見られませんよ。

 水門は亀島川と隅田川を繋ぐ地点にある川、湊町、鉄砲洲た新川を繋ぐ、両国橋を解体した機材を下取りして出来たトラス橋です。因縁はどうも前の両国橋にさかのぼるようにも?とふと思ってしまいました。

 南高橋で知ってる限りそこからの身投げ話など聞かされたことはありません。でも、このひらがなの橋表示には、確かに「なみだ はし」と読めますね!

2010年1月24日日曜日

明石町 外国人居留地




 「誰もいない裏窓」
 
 薔薇が活けられ 
 
 今日もあの人を待つ 
 
 暗い部屋




 娘がまだ小学校の頃、明石町、隅田川界隈にはまだ外国人居留地の名残がありましたね。
 その草っぱらには四季折々の草花が乱れ咲き、夏などは子供でなくとも、私達大人でも、中に入り込んでトンボ、蝶を追いかけ回したくなる一角でした。周りを柵と有刺鉄線で覆われ、覗き見するくらいなのだけれど。

 入口の扉が黒く、壁際にランプが有るのですが明かりが灯るのを見たことが有りません。其処に行くのは怖いのですが、そのノブを回したいのです。つい、私は低い声で囁いてしまうのでした。
「ほうら、ドラキュラが出るぞお。」
娘はむきになって怒りました。
「止めて、パパ!」

 家に帰り、私はお婆ちゃんに怒られるのです。 
「子供を怖がらせるものではありません。」
ほんとによくお婆ちゃんからは、怒られたもんですね。

 そんな時期も、時は知らぬ顔で過ぎていきます。娘の大学時代、店の常連さん二人、何時ものメンバーで家族旅行に伊豆下田方面に出かけた時、娘はホテルで高熱をだしました。一晩氷で体を冷やし、次の日は予定とおり早々にホテルをでました。
 
 正月の連休、なにはともあれ東京に戻ること、病院は明石町セントルーカ病院まで帰りたい。下田まで戻れば新幹線で。娘はぐったりで口も開けませんでした。
 
 やっと指定席を見つけ、車内は立ってる人で身動き出来ない状態の中を寝かしつけるように、座らせて東京一目散。聖路加病院救急部に担ぎこみました。原因不明の高熱は一向にさがりません。私はその日一晩娘の脇に座り娘の不安な気持ちと戦ってやりました。
 
 次の日、娘は入院することになったと、聞かされました。病院西側の新館病棟です。今、十数年前のことを思い出し、その病棟の窓を見上げ、通りを挟んだ小児科病棟の芝生の敷石を踏み、あのドラキュラの家が其処に移されて、記念指定の館だと知りました。セントルーカと縁の深い宣教師、医師でもあった人物。あの館は迎賓館でも有ったそうです。 昭和十八年頃。

2010年1月23日土曜日

夢二 黒船屋


娘がまだ中学生の頃、夢ニの黒船屋の絵を見て、
「この黒猫と着物の黄色が素敵。」
と言いました。
「この着物は黄八丈といって、冬に咲く石路(ツワブキ)の花の色みたいで、パパの好きな色なんだ。」
と答えると娘に
「石路<ツワ>なんて、知らない。」
と言われたことがありましたね。

          黄八丈 知らぬ娘や 石路の花                                                        ノブ

2010年1月20日水曜日

夢二のデッサン


 この島田を結った女は私の母が生前、唯一私に残してくれた宝物。夢二の貴重なデッサンです。正面の顔と、横顔が並べて書かれてるのも気に入ってます。

 母が手に入れたきっかけは、歌会の席賞で頂いたものと聞いた覚えがあるのだけれど、その歌は殆ど記憶にありません。

 母は歌会、句会などで主宰していらっしゃる、あの白秋、私も覚えてる尾山篤二郎先生と交流がありました。尾山篤二郎先生の家は私も覚えています。

 夢二からもらった手紙で墨筆で書かれたものもあり、夢二亡き後の遺作展がありましたとき、母の知合いから紹介されたと、夢二の従兄弟という人に貸し出しましたが、結局戻ることがありませんでした。

2010年1月18日月曜日

媚薬

夏の日の 西日に透けて 帰る女の淋しき
秋の日の 釣瓶落としの坂を背負い込んで 帰る男の淋しき
女は云った。

「私は病気だわ。葡萄酒と、音楽が必要よ。」

男はベットに腰掛けたままタバコをくゆらす。
朝のテーブルに、二人は思いだすこともなく、ナイフでパンを切る動作を、 
サルトルが珍しくも表現した愛の、夜の仕草で演じるのだ。

生命の文明は暗い
有翼花冠の堕天使
デューラのメランコリアの女は
部屋に座り込んだまま、海を眺めている。
誰も入る余地のない傷口のように突き抜けて、出て行った、部屋の、窓の、経験の死んだ雨

ベル ファム、ベラ ドンナ
ファム ファタールと世界が名指しても
如何なる国 何処の 人の心をも刺激するなら

「私は病気だわ。葡萄酒と、音楽が必要よ。」

2010年1月17日日曜日

隅田川の西日


 娘へ
 ブログの文章がなかなか書けません。今、西日が照り返す隅田川の水に、何処までも追いかけられ 、金色 銀色 時は過ぎていくなど 鼻歌混じりで帰宅しました。三時に風呂です。夕飯は豚しゃぶ。

2010年1月16日土曜日

谷中坂上一丁目


 こぶしの咲く頃に、谷中方面に出かけることになります。
入谷のお寺に私の墓があり、毎年自分で墓地料を収めに行くのです。

 何時も上野の森の音楽学校の裏を抜け、谷中、下谷、入谷と歩きます。
「***寺」と云うお寺が坂の上にあるのですが、勿論こんな立派なお寺は私のお寺ではありません。
若い頃、ここのお寺の三人娘の一人と駆け落ちみたいにして、千葉の港町まで逃げた事がありました。

日の長くなった坂道を下りながら、線香の香に、ふと昔の自分が立ち止まっている思いになります。
   
  めぐりあう 坂一目散 遅日果て
                         ノブ  

2010年1月15日金曜日

西日の女


 一丁目の喪の家が、二丁目の町内会の建物で葬儀のテントを張った。
青年団は町内会のテントで揉めるのだ。

 曲がりくねって路地は二百十日を過ぎて行った。
さすがに朝顔も衰え、枯れ始め、だが、カマキリは枝に縋りついたままだった。

 濡れた木の幹から横に広がる枝との年輪の不思議。何故か昔読んだ本の中に
「丁抹」(デンマーク)の王子と書かれた字が分からず
「丁稚」(でっち)の王子と読んだ詩が有ったことを思い出した。

 友人と電話で話さなければならないが、これは人間の言葉で話さなければならない。

「西日」は夏の季語で「処暑」は秋の季語である。
二つは 同時には使えない。

 一丁目と二丁目と曲がりくねって、喪を辞して、帰る女を送ったら
西日はもう秋の気配だった。

    喪を辞して 西日に透ける 女 かな
                               ノブ

                        

2010年1月13日水曜日

鴨川


 鴨川駅、バスを降りてから、誰かに付けられていると思った。振り返ることが出来ず、通りを横町に曲がり、浜の方へ行った。やはり付いて来る。浜へ出るのは危険だが、もう人気のない漁師の空き地を滑り下りていた。男は声をかけて来るに違いがない。私はとっさに、浜の傾斜を逆に駆けあがり、石垣を積んだ旅館の庭先に進もうとした。男が石垣を見上げ、「一寸待ちなよ」と凄んで見せた。
 石垣に紅い花が咲いていて急に浪の音を聞いた。バスの中で、私が会って話していた着物姿の意気な女を男は「あねさん」という云い方で、何故か執拗に、根ほりと問いただすのだった。地方では、まだ着物姿が珍しくもない頃の話。

     はまなすや 呼び止められる 恋もせず 
                             ノブ 

2010年1月12日火曜日

貴方の孤独よ 父よ 最終回


 家族が寄り合うことがあっても会話には口を挟む事がない、父と言う言葉。母から父のことは何も聞かされませんでした。

 そんなある日、パパが日本に帰って来る。ママは困惑してるのは明らかです。そして、兄弟、結婚した兄達、皆で話し合いの集まりさえも持つこともありませんでした。Kさんはその後、姿をみせなくなりましたね。もしかしたら、私だけが何も聞かされていなかったのかも。僻みかな。私は良く友人に「俺のところは、まるでカラマゾフの兄弟だからね」と幾分得意げの喋ったりしたもんです。

 パパも自分が買って与えた家なのだからと、戻るのは当たり前の話。でも三十何年、家族と別れ別れの生活を思う時、デラシネ 祖国喪失者の感慨に忸怩たる気持ちが有った筈です。

 男には外出から家に入る時、敷居が高いという意識が有るものですから。昔から「女、三界に家なし」との諺もありますが、男の孤独には、この家とは自分の人生との幻影を見ていたのかも。

 父は確かに家に帰ってきましたよ。私と母と食事のテーブルを囲んだ時の記憶にこんな事がありましたね。
皿に盛られた赤いトマトを、何気なく「そのトマト」と口にし、食べかけた時、父が「それはトマトじゃないトメイトだ」と窘められました。其の日が家にいた幾日目かわかませんが、やっぱり母と、私だけがいたときです。二人は奥の間で口論になり、父が母を中廊下迄引きずるように連れ出してきました。勿論私は止めに入ったつもりが父の足を引っ掛け、父は転んでしまったのです。その時はそれで終わりましたが、後になると、父は兄達に言いふらすのです。「ノブが私を足で蹴飛ばしやがって。俺は転んだんだ。」と。弁解はできません、事実ですから。でもパパが其の時私には老人なのだと、気を使う余裕がありませんでした。今、自分が歳をとり、歳をとらなければ実感できないものだと分かるようになりました。

 ママはパパに「私は、貴方と一緒には住めない。離婚してくれ」と。もつれ話から口論になったのです。母との過去の縺れに付いては一切聞かされていませんが、当時ママが就寝時には枕の下に、夫人用コルトを枕の下に偲ばせて眠りに付いた話には、何か引っかかるものがあります。

 話し合いの結果、父は三男の医者の家へ引き取られ、離婚はせずに別居という形に収まりましたが、七十にもう手の届きそうな父が何を思ったか、ふと、考えます。それはママのことではない。親子という父と子の安らぎ、血の繋がりに自分の孤独を埋めたいと。死んで残せるものだけはママではなく、息子達に~と思っていたとしたら。

 死は何時、何処にでもいた筈。でも、息子を医学の道にすすめさせたかった三男の家で迎えた死は、安らかに死者を眠らせてくれた筈です。

 私は八十過ぎて、父の孤独をわが身に投影し、色々な想いが自らの痛みと重なるのです。
 去年の秋も深まる頃、初めて、父の墓参りに行きました。

   秋桜ことさらならず 父の墓
                            のぶを 

2010年1月11日月曜日

貴方の孤独よ 父よ 第6回 - 戦後の青春時代


 家の横手に回り、濡れ縁の簾越しに声をかけます。「ママ、元気だった?」一番最初に戻れたのは私でした。八月ももう秋口です。あの真っ赤な夾竹桃が季節には無頓着に咲き誇っています。その年の末迄には兄弟四人揃うことが出来ました。
 
 日本の軍部が崩壊し、戦後のデモクラシーの時代が始まります。ママはパパとの連絡を当然喜んだ筈です。家族は揃いましたが、問題はこの住まいが狭すぎること。男兄弟が4人、Kさん、ママで6人が暮らすのですから。
 
 東京への郷愁、女の夢は現実に負けないこと、母はそう思っていたのでしょう。パパとの遣り取りで、何を話したか、私には一言も聞かされていません。でも、長男は聞かされていた筈。一家は世田谷明大前に、百坪の土地、平屋木造家屋に住むことになりました。

 軍部が崩壊し、アメリカンデモクラシー、戦後の幕開けです。長男の兄も、三男の医者も各々の職業に付き、結婚、独立しました。次男の兄は映画の助監督で、殆ど家に戻る事もなくなり、何時か家は以前のようにママと私、それにKさんの3人に。Kさんも前の仕事の保険のセールスに復帰。

 私は小型自動車免許とりましたが、車を運転する仕事にもつけず、ペーパードライバーのまま一度も街を走る事も無く、唯の身分証明書のままです。

 それでも戦後の数年は私の青春を謳歌していましたよ。
 私の師とも云える2人の画家、山本蘭村氏と井上三綱氏。
 有島武郎氏の血を引きつぎ、従兄弟に音楽家である山本直純氏を持つ芸術家一家の山本蘭村氏。
 戦後初めてのアンデパンダ展で、当時世界のイサム野口に見出され、大賞を取った狐高の画家、小田原 入生田の塔頭(たっちゅう)に籠り、絵と絵画の違いを日本の「無」という切り口で平面の向こう側に出た人、井上三綱氏。お二人とも私がこの店をオープンした頃の前後、お亡なくなりになりました。有難うございました。

 吾が師よ、三綱さん、平塚美術館で先生の回顧展、懐かしく拝見しました。でも私を魅了した小品、二つの桃は見つけることが出来ませんでした。そんなことは私が所有している「巻貝の中の牛」と同じように人の目から秘匿されたまま埋もれているのでしょう。

2010年1月10日日曜日

貴方の孤独よ 父よ 第5回

 1941年12月8日、日本はハワイ沖でアメリカと戦闘状態に突入しました。太平洋戦争の勃発です。昭和17年、私は中学3年の17歳の時でした。

 三男の兄貴は、上の兄貴2人が召集を受け軍隊に入った刺激もあったのでしょう。私は兄が秘かに机に向い、血書の嘆願書を破っては認め直しているのを盗み見しました。兄はもう医大を卒業し、医師研究生で石川県の山中温泉町の病院に派遣され直ぐにも行く手筈になっていたのです。軍も医学生の入隊免除は、はっきり認めていました。兄には無念だったことでしょうね。 

 家に残った家族は、またしても、私 ママ Kさん。父親からの送金は閉ざされ、お米も配給制。手に入る限られた量はわずかでした。食料はヤミ米。お金の価値が下がり、農家に買い出しにいっても米をお金では売ってくれません。農家で欲しがるのは、身につけるもの、衣類、履物、とくに着物類は喜ばれましたよ。お米は配給制なので、見つかれば、直ちに没収されます。ママのタンスの中はだんだん空になり。 お米のご飯を口にする事は殆どなくなりました。サツマイモ、グリンピース、大豆などで飢えを凌ぎます。

 そんな頃、Kさんの子供がいつしか転がりこんできました。私より年下で当時12、3才だと思います。ママは此の子を可哀そうなくらい無視した扱いをし、食事も同じテーブルには付かせることはありませんでした。

 そんな家族の人間関係を巻き込み、私は二十歳になり、戦争末期の軍隊に召集されました。前回「サイドカー」に書いたとおりです。
 
 昭和20年8月14日、日本降伏。私はいくらかの給与と毛布、米を支給され、多摩川あたりの仮宿舎までトラックで運ばれ、秘かに解散させられました。駅のあるところまでただ、茫然と歩き、上りの電車に乗り込み、座り込んでいました。車両はすいていました。誰もが俯いて、もう何をする意欲のある顔ではありません。
 
 兎に角、新宿迄戻る事が出来ました。駅のホームは屋根は飛ばされたまま、車両のガラス窓は無く、家畜輸送車のように、板張りです。駅の外は無残な状態でした。ただ一面、焼け野原、建物の瓦礫の山、所々で家を失った人々が、防空豪を利用し、焼けただれたトタンを被せ、豪の外に住居表示を書き記した板を瓦礫の中に埋め込んで消息を確かめあっているのです。これから小田急に乗るのですが、驚きは日本の交通機関が破壊されなかったという現実。それに帰還兵というのか、敗残兵の格好の私。これも現実の出来事。
 
 とうとう原町田です。住宅地は無傷です。家の前で躊躇いがあります。玄関から
入る勇気がありません。私の息子が初めてアメリカ留学した頃、私達夫婦も遊びに行っての帰り、成田空港の検問に札がぶらさがっていました。「エイリアンの方はこちらの入口へ」とあり、何か異様な感慨を持ったことがあります。家の前に立ち、それに似た思いをしました。そこから私は拒否されていましたね。

つづく

2010年1月9日土曜日

貴方の孤独よ 父よ 第4回 - 原町田へ引越し

 私たちの家に出入りするようになったこの男の人、なーちゃんの兄をKさんと書きます。俳号が三文字でKで始まる名前でした。

 その頃、私達家族は世田谷の若林に移り住んでいました。出入りの門の前は路地、周りはすべて畑に囲まれています。買い物はバス通りがすぐなので、渋谷のデパートへ行くのがママの日課みたいでしたね。ママは日本料理も手際は良く、味にううるさい人です。兄達のいるときは、おかずの量、数を私とは分け隔てがあり、ご飯も、2杯以上お代りさせてくれませんでした。夜は九時過ぎまで起きてることは許されませんでしたよ。 
 Kさんが夜も泊っていくようになってからも、それは勿論きちんと守られていました。彼は夕方日の落ちる頃、普通のサラリーマン並みに家に帰ってきます。大きな鞄を提げ片方の手には露天のたたき売りバナナとか、グレイプフルーツを買って来てくれましたよ。それを食事の後のデザートに。父のいないまだ少年の心は喜ばないわけはありません。そんな時、ママの嬉しそうな笑顔が有りました。

 時間どおりに私は奥の八畳の部屋で寝ます。布団が三つ敷かれてあります。右端の私の小さな布団、隣にママの布団、少し離してもうひと組、厚手の布団です。ママは就寝に付く時、必ず大きなハンドバックを私の枕とママの枕の間に立て置いてから寝ました。 

 こんな若林の生活は、支那須事変も長引き、アメリカとの国際情勢が険悪な様相を呈し、東京も火の海になるとの噂に、地方への疎開へと移っていきました。次男の兄にも召集令状がきました。もう女手一つでこの家を支えてはいけない。Kさんが原町田に陸軍の偕行社の住宅を格安で借りられると探して来ました。若林は高級住宅街です。私の通学は遠くても、偕行社は陸軍の家族達の相互扶助会なのです。そこへ入れてもらえるなら「背に腹はかえられぬ」と決断し引越しすることになりました。

 其の時には医学生の三男の兄貴が引越し手伝いに来ました。荷物を整理する事とは、捨てて行くことですね。兄貴と私はママの大事な植木をリヤカーで。兄貴が自電車で引っ張り、私が車を後ろから押すことで、原町田迄を引っ越しました。さて結果はどうなっていたでしょう。植木鉢ごとに薔薇の木。隙間に詰め込んだ鍋、甕。牡丹の鉢も大事にして居ましたね。握り飯、水筒の水。地図は首にぶら下げ。多摩川を超えるまでは、ピクニク気分。そこから先は山あり谷あり、登り坂を自転車では登れません。でも舵をとらなければなりませんよね。交代。私が舵。何回も休み山有れば谷です。  
 
 畑ばかりと思っていたのに、田園があり、そんなところで握り飯を食べました。やっと山道を抜け、広い舗装道路です。これが多摩御陵へ通じる行幸道路。ここまで来れば原町田の外れに出る筈。午後三時に付く予定が一時間遅れています。私も兄もだいぶバテていましたね。小田急の踏切を超え、もう目的地です。
 
 道の両サイドには人家は殆どありません。倉庫、畑がつづいてます。ここで、家族が住むということは、新しい人間関係を形成するということになります。Kさんが父長、ママが母親 私は子供。やくざ映画ではないけれど、「浮世は、義理と人情の板挟み」というやつです。

つづく

2010年1月3日日曜日

貴方の孤独よ 父よ 第3回 - 世田谷若林のころ


 母の生活は父からの送金で賄われていました。当時、為替レートが1ドル365円。ドルで送られてきて円に換金され、手数料を引かれても大金です。一番上の兄貴の5、6年前の初任給が其のころ50円と聞いた時代です。紙芝居が1銭、ベイゴマが2銭、3銭の小遣いです。10銭あれば子供料金で映画館に入れましたよ。これから支那事変が勃発する頃です。
    
 昭和15年、軍に長男が招集されました。支那事変が起きたのです。北支派遣軍として中国に行き現地教育です。私が15歳ですから兄は25歳ですね。兄はこの後、大東亜戦争に突入し一度も内地に帰ることもなく終戦時、新島から帰還したのです。
    
 話が飛びました。つまり、これから終戦まで家族に、父親代わりの長男が居なくなるのです。

 母がある日、私を呼ぶのです。
「ノブ、一寸ここへ座って!」
また、怒られるのか、と傍に寄ると、
「この便箋にパパに手紙を書いて。ママが云うように。」
ママは達筆なのに。私は悪筆で学校でもノートを殆ど取ったことが有りません。この不器用さが今の私の人生を作ったのです。

「パパ、僕、元気だよ。アメリカの絵ハガキ楽しみに待ています。ジャム、ジェリーが大好き。ママが元気がないよ。お金がパパから来ないって言ってる。送ってね。伸夫」

 こんなことを書いた気がします。今から思うと送金事情が、日米関係の悪化と共に為替事情の取り扱いに何らかの取り締まりの目が厳しくなっていると理解出来ました。
     
 私は15歳で青山学院中等部に入りました。次男の兄は大学を出て、直ぐ映画の仕事に入り、家に帰る事もなく熱中し、嵌り込みましたね。三男の兄は医科大学に入り、研修生とて長野の医療機関に住み込む準備を整えている時代でした。 そして家族は?何人?其の後のパパとママのやり取りは知りません。電話も手紙の連絡も、今とは訳が違います。

 私の息子がシアトル大学の留学時代、昼夜反対の時間の連絡に、FAXを購入しました。今でもそのまま使っています。
     
 私が二十歳になるまで、あと5年有ります。この5年、女手一つでの生活を、周りの男性は母をほっとく訳はありませんでした。以前から母の周りに出入りしてた彼。離婚歴のある子持ちの保険会社社員で、大口の官庁の仕事を持つセールスマンで、「海紅」と云う現代俳句の俳壇の同人、筆を持つと逆筆を使い魅力のある字を書きましたね。よく欠席届を書いてもらい、担任の教師にいい字だね、と褒められたものです。
      
 この人の妹さんもよく母の所に現れるようになりました。ママから短歌の指導をしてもらうという事なのです。名前が気に入りましたね。「撫子」なーちゃんと呼んでいました。「大和撫子」女姉妹に飢えていた私は彼女の来る日を待ち遠しく感じていました。私が初めて女性と思った年上の女。私となーちゃん。この人には、色々勉強させてもらいましたね。ことに、文学については、リルケ、オスカーワイルド、フランスの詩人達、マルドロードの詩、随分この年上のひとから吸収させてもらいました。学業そっちのけで学友そちのけで、チャペルの裏の芝生に寝転がり、文庫本を読み漁りましたよ。

つづく

2010年1月2日土曜日

貴方の孤独よ 父よ 第2回 - 淀橋のころ


 母をママと呼んでも、父をパパと呼んだことはありませんでした。ママがアメリカに居た頃、常時眠りに着く時、枕の下に婦人用コルトを偲ばせて眠りに付いたと。これは母の日誌のメモなのか何気なくの拍子に口を付いて出た言葉かそれはもう七十年前の夢物語り。

 父のその後は、数年間、母の口から何も聞かされませんでしたが、何カ月に一回は小包みが届いていましたね。当時の日本は、物資、食料は餓鬼道に落ち込む程飢えて居ました。クッキー、チョコレート、ジャム、ジェリー(これは父が自分でイチゴジャムを作り、保存して置いたものを送ってくれるのです。)後は衣類です。派手なグリーン、ブルー、黄色。冬にはグリーンのコートを人目を憚らず着こんで歩きましいたよ。
     
 或る時、塩鮭の大きいな梱包が届きました。その切り身を何故か直ぐ上の兄貴と、母親が旅行に出かけてる留守、三日間、鮭だけで食事をしていたら、二人揃って体中、蕁麻疹になり 下半身から上半身に駆け廻られた、情けない思い出があります。
     
 そんなことで、父の職業がパン屋さん、ベーカリーをしていると話して貰えました。母への手紙の中に、大事に保存してたお菓子のレシピが入っているようでした。今でもママの作るレモンパイ、ドーナツ、一緒に手伝った日々を数えて、忘れられない味覚です。あれはパパの手掛けたレシビなのでした。

 母は良く引越しをしました。淀橋にいる時だけで、三軒、紙を横に張り、空き家の文字!ひとつ所に住むと目立ちすぎ、噂の種が絶えない。男の出這入り、女手一つの遣り繰りが不自然だ、などなど。

 母は短歌、俳句の結社に所属し、白秋 夢二などとの交流を持ち、男性からは「ローズ夫人」「カナリヤ夫人」などと呼ばれていました。洋装も素敵でしたよ。帽子は勿論、顔に垂らした黒のベール、ハイヒール、目立たない訳がありません。家には書生を置き、外回りの雑用を仕切らせていました。

 淀橋から、逃げ出すように、私達は世田谷に移りました。其のころから、一人の男性が私達の家に頻繁に出入りするようになりました。

つづく
 

2010年1月1日金曜日

貴方の孤独よ 父よ 第1回


「チャタレー夫人の恋人」を書いたD H ローレンスの言葉が、若い頃の記憶に残っています。男親はただ居るのだと、いうことだけで、子共と一緒に居なくても大丈夫なものだと。
細かくは覚えてはおりませんが、人生の手引きに為る暗喩を重ねた神秘的な言葉が、若かった頃の私を惹きつけましたね。  

 私が父の姿と初めて出会った時は小学二年の頃、横浜埠頭に家族一緒に迎えに行きました。私はその時八歳、一番上の兄が十年上です。暁星中学の詰襟を着ていました。私以外(3人の兄)はアメリカ、シアトル生まれです。私は母のお腹の中で海を渡り、東京で産まれました。
    
 つまり、母と父との再会は私達の歳を足すと、八年ぶりということになります。母がもし二十歳の時、海を渡り、数年後兄を産んだとすると・・・此の時の母の歳は三十八前後。父の歳は知りません。

 船が埠頭に着き、乗客が皆でデッキに姿を現します。波止場に輪を囲み出迎えの歓声を上げています。下船が始まったのです。「あそこだ!」と兄が手を振ります。小柄な人です。当時日本では見かけないパイプを咥え、中折れ帽子にロイド眼鏡。

 どういう訳か、此処からの記憶がまるでないのです。家族で出向かいに行ったと思っていたのに次男、三男の影がまるで消えています。もっと不可解なのはその日、父が何処に泊ったのか、母と父の姿が並んだ映像も何処かに消えてしまって居るのです。
    
 ただ一つ記憶あるのはあの匂いです。パイプの匂い、葉巻の煙です。これは一人で家に居る時、一番上の兄の書斎を開けた時、応接間のソファーに寝ころがった時、ふっと嗅ぐのです。
    
 それっきり、父とは一度も顔を合はせたこともありません。母をママと呼んでも、父をパパと呼んだことはありませんでした。

 ママがアメリカに居た頃、常時眠りに着く時枕の下に婦人用コルトを偲ばせて眠りに付いたと。これは母の日誌のメモなのか何気なくの拍子に口を付いて出た言葉なのかもう七十年前の夢物語り。

 つづく