会場に遅れ、席に座れない立ち見の人垣を彼女は平然と、その間を真っ直ぐ中央の席に進みます。振り返り誰もがカロリーナ嬢と分かると彼女の歩む先は自然に道が出来てしまいますね。
前の席で悠然と座りこんでいた一人の武官が慌てて立ち上がり、彼女の手を引き寄せ自分は跪き席を明け渡します。彼女お気に入り若き武官。彼はエステルハージ伯爵の父からも目を掛けられている日本では王宮を守る儀仗兵です。
彼は遅れて入ってきたカロリーナに一生健命に囁いています。一方、彼女は馬車で揺られ、疲れと化粧の崩れが、気になり、バックの中からコンパクトとパフを引き寄せ、思い切り顔をはたき始めるのです。身の回りに飛び散る白い粉。少しも意にかいしません。
でも、ふと演奏の流れに気づいたのか、さっき迄耳元で囁いていた武官の顔を見上げ、目線で「あの人?誰?」また、彼は調子づき、耳元に「シューベルト」と囁くのですが、聞き取れません。彼は指を伸ばし小指でコンパクトの鏡がパフではたいた粉で真っ白になた鏡に「シューベルト」と筆記しました。「知らないわ」多分彼女は首をかしげたのでしょう。調子に乗った彼はシューベルトがさっきまでサロンの人達の物笑いになっていたいきさつを面白可笑しく囁いてご機嫌を取ったのでしょう。彼女は下を向き、笑いが止まりません。
シューベルトの指が2楽章から3楽章に移ろうと、新しい拍子のメロディー、ト長調4分の3拍子が流れようとする其の時、彼女は息を抑えようとした瞬間、笑い声が爆発。シューベルトの指がピアノの鍵番からはなれません。
館内は一瞬静まり返りました。笑いはまだこらえきれません。もうシューベルトは立ちあがっていす。青年まだ二十歳代。
シューベルトはもうピアノから立ち上がり、笑いが起きた一隅に顔を向け怒りの表情。カロリーナ嬢は、まだ笑いが収まりきれず、背を倒し手で口を押さえ 堪えるのにもう必死。でも周りの雰囲気に気づき、上目使でにシューベルトの怒りの顔を見たらもう駄目。彼女は堪えきれず、さっきまで、若き武官に耳元で囁かれた、この会の主役、シューベルトのおかしなの登場。質札を下げたタキシード。その紐で侯爵夫人の秘蔵の彫像をひっくり返した話。そして彼に浴びせた夫人の皮肉な一言。その話を想い浮べ、今、その人が立ち上がり怒っている、もうそれはもう堪え切れない可笑しさなのです。
彼女もまた孤独なのです。誰がこの秘かなる哀しみから、湧きあがった笑いを止めること出来るのか。人の定めとは、しばし、あらぬ方向にお互いを結びつけるものなの。
爆発した彼女の笑い声は、会場の人びとをも唖然とさせるもが有りました。シューベルトの怒りも、2楽章から3楽章に入る、ふっと新しいメメロディーが指から滑り出した時なのです。泣きたい程悲しかったはず。この怒りも。立ちあがったままピアノの台の上に楽譜を置くと、女性の笑い声のした方に向い叫びます。
「そこで、御笑いになった御方、どなたかは存じません。でも、私は道化師ではありません、ここに、私は笑いものにされに来たきたのではありません。」
楽譜を小脇に抱えると、会場のロビーです。後から追いついてきた協会役員が公務員のような口のきき方で説得するのですが、シューベルトはもう聞く耳を持ちません。役員の話、はこう云う事です。
「サロンの催しにはこんなことは、付き物なのだ、軽く受け流すのが常識、むきになってサロンを壊すことは、もうウイーンの学友協会から、相手にされなくなると、云ううことだ。戻ってピアノを弾き給え。」
シューベルトの言葉は同じです。
「あの女性にお伝え下さい。 私は道化師ではありません。」
この言葉が二人を引き寄せる、人生の不可解なキーになるのです。
2010年12月7日火曜日
2010年11月27日土曜日
2010年11月22日月曜日
雑誌「散歩の達人」に掲載・・・!

この雑誌「散歩の達人」に書かれた湊町界隈を読ませてもらいながら、私は34年前の見果てぬ夢の頃を思い出すのです。
この店を構えた当時はオイルショクの時代。今時そんな水商売やっていけるわけがない、と誰からも言われたものでした。鉄砲洲界隈神社の前にバス停があり、地下鉄が八丁堀を通っていました。この交通手段の間に湊町があります。
桜川(八丁堀)から流れ込む汚水は稲荷橋を抜け、隅田川へ流れ込むのです。その汚水の悪臭は誰もが手で鼻を抑え逃げたものです。
河川の汚水問題がやっと問われるようになり、八丁堀から稲荷橋までを暗渠にする計画工事を進められ約十年をかけ、浄水場をも設置しました。 その後、橋は取り壊され、「いなりばし」と書かれた跡碑があるだけで、昔の面影はありません。
昔は稲荷橋の上流側に艀「ハシケ」の溜まり場ができました。船はお互い「モヤイ」で繋がれ、陸へは船からワタシ板がかけられ、行き来ができるようになっていました。
ハシケは潮の干満に合わせて朝早く、曳船が仕事に船を引張りにきます。寝ている家族、子供は陸に上がり、または仲間のハシケに身を寄せることになります。
ハシケはだるま船ですから自身では動けません。竹竿で川底の届く範囲で移動するだけ。モヤイするふな溜まりには海運業者が作った水洗い場が備えられてあります。母親はハシケと共に、勿論共稼ぎです。子供は昨夜から用意された朝食を食べ通学の時間を待ちます。小学生の娘がいれば、母親代わりの洗濯、晴れれば布団干し。
そんな船の生活者を、私達はただ、見ていたことを今更、自分達を含め頑張ろうと、考えるだけなのです。
こんな話を書く予定ではありませんでした。湊町のことを書く筈が、又横道に入りました。
店を開店したご挨拶の言葉書きを34年前を懐かしみ抜き書します。
< ごあいさつ >
東京の街にも、まだ下町情緒を残した一画が残っております。
隅田川のポンポン蒸気の音が聞こえてくるような路地裏に小さな店を出すことになりました。
どの方角から来ても、アア、こんな橋が有ったかと、郷愁を誘うのではないでしょうか。
下町の路地裏で飲む酒は、またどんな味わいがあるのか、是非、お試しください。
ラ ・リュード・湊は私達には懐かしい響きがあります。
2010年11月18日木曜日
猫のフー君

フー君。お前の絵を描こうとコンテで見つめると、君はいつもポーズをとって動かないでいてくれたよね。
でも、あの時は驚かされました。十月の終りごろだったよね。 三階の剣道具が置かれている隅で、籠に布団をいれてもらって 力無く休んでいたとき、パパが紙を広げて、何か描こうとしていたら、急に起き上がり私の前に来て、「描いてよ」とポーズを取ろうとして、上手く座ることができず。すぐヨタヨタして、ポーズをとれず、尻尾で重心を取ろうと尻尾を身体のまえに巻込んでよろけて、パパは上手く書けなくて。
この絵は没にしようとしたら、ママが額にいれてくれたので、今、パパの画集に入っていますよ。元気だった頃のフー君。弱っていても、私の不器用な絵にフーが華を添えてくれましたよ。
パパはまだ元気でいられるけどさ、先にいった人、君はそれなりに 次元を変えただけ?残された人はいっつも現在を生きていかなければ、それは何時も現在が人生だから。
Mを泣かせないでね。お休み、フー。
2010年11月17日水曜日
一枚の銀貨
昨日、月曜日。日本橋公会堂のドガの時代背景、ドガを含む印象派グループについての公演をを拝聴しにでかけました。開場は6時半。我が家、黒船屋から歩けば30分そこそこ。
ところが、其の日は夕方から晩秋の冷たい雨。そのうえ、其の日は店が7時から女性客の予約が入っているのです。そこへ、息子が私を送ってくれ、私のいない時間を自分が代わりを務めるから心配するなと云ってくれました。彼はホテル勤務の身。水商売、客商売のことなら私が何も教えることもないプロです。むしろ私は何時までも素人っぽいことがお客に愛されている84才のバーテンダーです。女性客なら、若い彼がいるほうが気にいる筈。それに、私が戻るまでは皆さまは待っていてくれる筈。勝手な話です。
そして、息子を二人で店を出ようと傘を取りだすと、
「傘はいらなよ、もう帰るまでにはもうやんでるから。」
と息子。彼は物事のけじめにハッキリしたオトコ。私は反対にだいたい全てのことに無頓着です。
まだ小雨の公園を抜け地下鉄で切符を買ったら、
「じゃあね、迷子にならないで。」
私は息子が、てっきり人形町の会館まで連れていってくれるものと思っていたので、
「なんだ、ここまでなら俺、一人で来られるのに。」
詰まり、話はこうです。彼は7時、今、人形町の一つ先の剣道具屋から急いで帰って来たところ。何故なら、今日の予約のお客さんに合わせて、私の穴埋めに来たのだから店に戻るよ、というわけです。まあ、雨でなければ、歩いて行くつもりだったのですから地下鉄の改札まで御見送り御苦労さま、と一人で人形町の改札を出て、出口の階段が二つあり、左の階段を上がりました。
外は未だ雨。昼まと違い町はうすら闇、パーカーのフードをしっかり被り直し目標の水天宮の交番の灯りがどちら側にあるか、雨をすかして見るのですが、、、、わかりません。
雨の日の商店街。観光されてる町はシャッターを早く降ろすものです。フードから降り掛かる雨も憂鬱です。昔、子供たちに絵本を読んでやっていて、読んでいる親がが泣きたくなる、御使いにだされた少年のお話。「一枚の銀貨」を思い出します。
母親に云われた事を繰り返し呟くのです。
「バター半斤、パン一斤、それからチーズを三個 忘れずに。」
少年は一生懸命に言葉を歩調に合わせて小川を飛び越します。
「ヨイショ」
小川の向こうには明るい人恋しい、肉やの灯り。お店に少年は飛び込みました。お店のおじさんと顔を見合わせたのですが、さっきまで口で唱えていた言葉がでてきません。ただ、ヨイショ、ヨイショです。少年は手をグッと握りしめました、そして顔色が変わります、しっかり握りしめていたお金がないのですから。
未だ低学年の少年、他人の前では泣けません。少年は今来た道を銀貨を探し、戻ります。ママの顔が見たい、怒られることなど考えていないのです。ママは迎えにでていました。ママは少年の顔を見ただけで、何が起きたか分かるものです。
「ママはお前が肉やさんに行って、戻ってきただけで、うれしいの。お金を落としたことは心配しないで。」
少年はそこで、ママの膝にしがみ付き、泣くのでした。
この童話は何度子供たちに読んでも、自分の声が震えたものでした。
ところで、私は出口から反対の歩道に出てしまった結果、目線が合わず交番を見つけることが出来なかったのです。
2010年11月6日土曜日
2010年10月21日木曜日
2010年10月19日火曜日
ウィーン旅行より 第8回 映画 未完成交響楽
ガス灯の灯りが、車寄せに、二頭の白馬を見事に際出させ、ロビーのクロークの係も緊張と期待で馬車の中の人物に瞬きも出来ず見守ります。守衛の白の手袋に手を預け、降り立ったつま先も見せない白のロングドレス。裾を引き摺り、コートを預け、無言のまま扉に歩み寄ります。エステルハージ伯爵令嬢です。
このコンサート主催は侯爵夫人です。爵位でいえば階級は下です。当時はオーストリア、ハンガリー帝国の時代。侯爵の下でも、名門ハプスブルグ一家につながる家柄。神聖ローマ帝国は、全てこの名門から出ているのです。父親ハハンガリー王国の儀仗兵を統一する軍人。広大な敷地に建てられた、城塞の様な屋敷。でも芸術の街ウイーンに比べれば、ブタペストはドナウ河を背にしたオーストリアの避暑地の様な場所。まさか、彼女はドナウ川沿いに馬車でウイーンに駆け付けたとは思えませんね。でも、何が何でもここへ来ることは女としての生きがいなのです。彼女を慕う多くの若き軍人たちとの愛の囁きを受けること。
音楽も素敵だわ。でもハンガリーの屋敷の周りには、私の心を癒してくれる人は何処にもいないわ。千里の道も遠いとは思わない。
この令嬢を演じている女優。私の若き日、ときめきを知った小中学生だった頃、あのマルタ イゲルト。私は小学生の頃から洋画ばかり見てましたよ。新宿文化劇場、太陽座、帝国館、光音座。これら映画館は割合小さな映画館です。
今だから告白すると、大抵はタダではいっていました。映画の終わる時間に合わせて、出てくる観客と同じ向きに後ずさりして入るのです。フランス映画専門の光音座はビルの6階で切符売り場と廊下が狭く、ガラス越しに下が見えないので、売り場の下を屈みこんで入りました。ごめんなさい!
マルタ エゲルトと云う女優さんは歌唱力、ダンスが素晴らしく、当時、昭和15、6年の話ですが、この映画は今見ても、心をときめかせます。ハンガリーのボヘミアンメロデーにのって踊る彼女、最後はゲーテの詩かもしれないこの歌。ジプシーバアヨリンがすすり泣きます。
「口づけを求めず 熱き想いを告げもせず
日ごと 虚しく心を乱す 夜の闇に君の名を呼び
手を折られし バラ 萎れるを待つばかり
日ごと 夜ごと君の名呼び 夢を見る
何時の日か この胸の堰の切れ 君に告げん まことの心を
こがるる想い 秘めしことを いつか身を包まん 幸せの輝きを
語れ、其の口より君を愛すと 偽りなりとも かたれよ 君を愛すと
君の目を見いれば 心はおののき 夜ごとの夢に君の姿を追う」
大分、話が横道に入りました。伯爵令嬢は重い扉を押し開き中へ。シューベルトの曲は二楽章の後半に差しかかっています。
つづく
このコンサート主催は侯爵夫人です。爵位でいえば階級は下です。当時はオーストリア、ハンガリー帝国の時代。侯爵の下でも、名門ハプスブルグ一家につながる家柄。神聖ローマ帝国は、全てこの名門から出ているのです。父親ハハンガリー王国の儀仗兵を統一する軍人。広大な敷地に建てられた、城塞の様な屋敷。でも芸術の街ウイーンに比べれば、ブタペストはドナウ河を背にしたオーストリアの避暑地の様な場所。まさか、彼女はドナウ川沿いに馬車でウイーンに駆け付けたとは思えませんね。でも、何が何でもここへ来ることは女としての生きがいなのです。彼女を慕う多くの若き軍人たちとの愛の囁きを受けること。
音楽も素敵だわ。でもハンガリーの屋敷の周りには、私の心を癒してくれる人は何処にもいないわ。千里の道も遠いとは思わない。
この令嬢を演じている女優。私の若き日、ときめきを知った小中学生だった頃、あのマルタ イゲルト。私は小学生の頃から洋画ばかり見てましたよ。新宿文化劇場、太陽座、帝国館、光音座。これら映画館は割合小さな映画館です。
今だから告白すると、大抵はタダではいっていました。映画の終わる時間に合わせて、出てくる観客と同じ向きに後ずさりして入るのです。フランス映画専門の光音座はビルの6階で切符売り場と廊下が狭く、ガラス越しに下が見えないので、売り場の下を屈みこんで入りました。ごめんなさい!
マルタ エゲルトと云う女優さんは歌唱力、ダンスが素晴らしく、当時、昭和15、6年の話ですが、この映画は今見ても、心をときめかせます。ハンガリーのボヘミアンメロデーにのって踊る彼女、最後はゲーテの詩かもしれないこの歌。ジプシーバアヨリンがすすり泣きます。
「口づけを求めず 熱き想いを告げもせず
日ごと 虚しく心を乱す 夜の闇に君の名を呼び
手を折られし バラ 萎れるを待つばかり
日ごと 夜ごと君の名呼び 夢を見る
何時の日か この胸の堰の切れ 君に告げん まことの心を
こがるる想い 秘めしことを いつか身を包まん 幸せの輝きを
語れ、其の口より君を愛すと 偽りなりとも かたれよ 君を愛すと
君の目を見いれば 心はおののき 夜ごとの夢に君の姿を追う」
大分、話が横道に入りました。伯爵令嬢は重い扉を押し開き中へ。シューベルトの曲は二楽章の後半に差しかかっています。
つづく
2010年10月14日木曜日
猫跨ぎ

カリフォルニアの娘が電話をかけてきました。何時も草臥れた声で、だいたい、私達が少し早めに夕食を食べ終わる頃、お客さんに合わせ、夕刊を読んでる頃ですね。彼女のほうはもう寝る頃です。草臥れた声、「ああご苦労さん」と思います。
彼女はもうベットに入る前のブログの打ち合わせと、ご機嫌話が終わると、もう寝るからお休み~!私達はこれからが夜のお仕事。
でも、今日はなにかはしゃいでいましたよ。なにかな鼻歌を呟いているのです。
「どうしたの?」私。
「さっき、車庫の前に黒猫がいたの。」娘。
娘のところには、長毛猫が三匹もいるのです。
「シャーちゃんがノラ猫の匂いを嗅いで、怒るぞ。その黒猫をかまっていたら。」
「幼稚園の頃の《黒猫のタンゴ》を思い出したの。知ってる?」
「知ってるさ。」
♪だけど、あんまり、悪戯すると、鯵の干物は♪♪♪おあずけだよ♪
それに、つい乗せられて、
「じゃあ、《猫跨ぎ》って、知ってる?」私。
「お前の兄貴は猫跨ぎなんだぞ。」私。
「何、それ?」娘。
「鯵の干物が嫌いだということ。あいつは、小さい時、漁師町で鯵の干物を毎日食べていたから、もう東京に来てからは、もう鯵の干物は食べたくなくいのさ。
猫も同じで、漁師町の猫は、砂浜に鯵の干物が干してあっても、跨いで見向きもしないといううこと。
タンゴ タンゴ 鯵の干物はもう御免だよ。」
♪ララララララ、ラーラ♪
2010年10月13日水曜日
2010年10月11日月曜日
伊豆 日帰り旅行 その2 河津バガテル公園
此の公園は、パリのバカデル公園を忠実に再現したフランス的なBagatelleな小路に導かれ、多くのアーチに囲まれたローズガーデンです。
バガテルとは、フランス語で「小さく愛らしいもの」を意味します。
東屋、レストランに入ると、入口に、こんな意味のスタンプが有りました。スタンプには黒猫が尻尾を高く上げた真横向きの猫。
Etre pas volert par et chemine. Merci Boucoud !
「採っては 駄目よ、路に沿って 行ってね!」
Merci Beacoud! Mon Amies!
秋薔薇は、もう冬薔薇に近く花弁も衰え、でも枝ぶり、緑の葉はこんなに親しく見られたのは貴重な体験と、ママは喜んでいましたよ。
お昼はモネゆかりの睡蓮の池のほとりのレストランで食事。四人それぞれ勝手なものを注文。私はカレーがとても気に入った味、サフランの黄色い、久しぶり目にする、カレーライスでしたよ。
改めて、Iご夫妻、ありがとう!お風呂もよかったです。
薔薇の視る 地平は昏き 夜明かな
ノブ
伊豆 日帰り旅行 その1
常連のIさんに誘っていただき、伊豆の薔薇園へ連れて行ってもらいました。いつも6月はママの都合がつかず、「秋の薔薇はどうかしら?」と今回の日帰り旅行。
薔薇園で食べたカレーが私の好みにピッタリ! 城ヶ崎まで車で案内してもらいました。釣橋を渡り、Iさん御主人に手を引かれ、至れり尽くせりの伊豆の旅。 昔 娘たちと天城越えをしたあの頃を思いだしました。
Iさんご夫婦がとても気をつかってくれ、おまけに、お昼も夜もご馳走になりました。ご主人もとても気さくな方でありがとう。
家に着いたのは11時近くの日帰り旅行、楽しませていただきましたよ。
写真の青いバックは、ウィーンにて日本語で値切ったママお気に入りの一点。ご機嫌です。
2010年10月5日火曜日
ウィーン旅行より 第7回 映画 未完成交響楽
厚い扉の中は広いサロン風の会場。上座の奥にゆったりと座っている侯爵夫人。その前にシューベルトは恭しく腰をかがめるのです。
其の時、ああ、何でそんな事になってしまうのでしょう。そうです、あの質札です。人の背中には目が有りません。何と、その紐が背をかがめた其の時、彼の後ろに据え置かれた高貴な朔像の手に引っ掛かってしまているのです。侯爵夫人は、挨拶の済んだシューベルトを、自ら身を起こし、では 私が皆さんにご紹介しましょう、と彼を従えるようにサロンの方に歩き始めた時、後ろに従ったシューベルトの一歩が、いいえ、あの質札の紐が 朔像を引き摺りおとして仕舞いました。
ああ、あの愛すべきエミリー。なぜ服を貸し出した時質札を外しておいてやらなかったの。其の情景に一瞬氷ついたサロン。夫人の皮肉たっぷりのその言葉
「これで今日は一段と演奏が楽しみになりました。」
彼は人びとに紹介されることもなく、ピアノの前に立つのです。そして、これから弾く曲を自身で説明します。
「この、シンフォニィーはロ短調で私の今、作っている作品です。」
静まりかえった場内、腰を下ろすシューベルト。さあ、何を心配しても始まりません。
エミリーも自分の部屋で、落ちついてなんていられる筈が有りません。シューベルトの下宿先まで出かけ、
下宿のおばさんにっ頼み込みます。
「どうか、この部屋で彼を彼を待せて下さい。」
おばさんは下宿の規則をエミリーに云います。
「宿は女性の出入りは九時迄なのよ。でも、知らない顔じゃないし おとなしくしていてね。」
嬉しそうな彼女の顔、此の顔はもう大人の顔です。
会場はもう、一楽章のそろそろ後半部に入りかけています。そして、ここで、ヒロインの登場です
つづく
其の時、ああ、何でそんな事になってしまうのでしょう。そうです、あの質札です。人の背中には目が有りません。何と、その紐が背をかがめた其の時、彼の後ろに据え置かれた高貴な朔像の手に引っ掛かってしまているのです。侯爵夫人は、挨拶の済んだシューベルトを、自ら身を起こし、では 私が皆さんにご紹介しましょう、と彼を従えるようにサロンの方に歩き始めた時、後ろに従ったシューベルトの一歩が、いいえ、あの質札の紐が 朔像を引き摺りおとして仕舞いました。
ああ、あの愛すべきエミリー。なぜ服を貸し出した時質札を外しておいてやらなかったの。其の情景に一瞬氷ついたサロン。夫人の皮肉たっぷりのその言葉
「これで今日は一段と演奏が楽しみになりました。」
彼は人びとに紹介されることもなく、ピアノの前に立つのです。そして、これから弾く曲を自身で説明します。
「この、シンフォニィーはロ短調で私の今、作っている作品です。」
静まりかえった場内、腰を下ろすシューベルト。さあ、何を心配しても始まりません。
エミリーも自分の部屋で、落ちついてなんていられる筈が有りません。シューベルトの下宿先まで出かけ、
下宿のおばさんにっ頼み込みます。
「どうか、この部屋で彼を彼を待せて下さい。」
おばさんは下宿の規則をエミリーに云います。
「宿は女性の出入りは九時迄なのよ。でも、知らない顔じゃないし おとなしくしていてね。」
嬉しそうな彼女の顔、此の顔はもう大人の顔です。
会場はもう、一楽章のそろそろ後半部に入りかけています。そして、ここで、ヒロインの登場です
つづく
2010年9月22日水曜日
2010年9月21日火曜日
ウィーン旅行より 第6回 映画 未完成交響楽
若干、 21才のシューベルトの初の社交界デビュー。演奏会は勿論弾きこなすことになにも恐れは無い筈。でも 貧困の質屋通いの不規則な生活。身の回りには、礼装を整えるものなどなにもありません。どうすればいいのでしょう。
頼みの綱は、あの質屋の店の娘、エミリーだけです。 その話を聞かされた彼女は飛び上がって喜びました。 そして シューベルトの手を取り、お店の倉庫、蔵の中に連れていきました。
そこには、 ありましたよね。質草とは云え、新品同然の燕尾服。 ただ、サイズがピッタリとはいきません。帽子、靴もそうです。
「でも、ピアノの前に座ってしまえば、誰もわからないわよ!」
エミリーの言葉は、 若き日のシューベルトの心に火を付けてくれました。 そして、肩に掛けるコートさえ用意出来たではありませんか。
そして、その夕べがやってきました。 ウイーン恒例の、キンスキー侯爵夫人の音楽界。侯爵邸の車寄せに集まって来る、黒塗りの馬車。高貴、華麗な衣装に包まれた麗人達。
宮廷に仕える高官、制服の徽章をちりばめたナイト達。クローク係は出番を惜しむこともなく鮮やかな対応です。 フロアーを仕切る厚いドア、 時折漏れる密やかなさざめき、グラスの触れる音、若い女性の嬌声。 仕切られたフロアーは見下ろす外の闇が屋敷を包みこんできています。
そこへ、夕闇を押しのけ黒のコートにハットを被り何か場違いを思わせる人物がやってきます。ドアーマンと喋っています。車寄せから、小走りで階段を上がり、フロントのクロークに招待状を見せていますね。やはり彼です。シューベルトが来たのです。 係がコートとハットを預かります。
其の時の係の顔、二人で唖然と顔を見合わせます。 衣装掛けに掛けたコートの背中にぶら下がっている質草の札ハットの中からも吊り下がる同じ札。 でも、シューベルトは平然と今夜の世話役に導びかれ、会場に入るのです。 人の背中には目がありません。 ほら、このコートの背中にも 垂れ下がっている 質札の紐。ああ、何か悪い予感がしますよ。カメラが、その 背中を執拗におい かけていきます。後ろの方からはもう指差す囁き、笑いを堪えた声が。。。。
つづく
頼みの綱は、あの質屋の店の娘、エミリーだけです。 その話を聞かされた彼女は飛び上がって喜びました。 そして シューベルトの手を取り、お店の倉庫、蔵の中に連れていきました。
そこには、 ありましたよね。質草とは云え、新品同然の燕尾服。 ただ、サイズがピッタリとはいきません。帽子、靴もそうです。
「でも、ピアノの前に座ってしまえば、誰もわからないわよ!」
エミリーの言葉は、 若き日のシューベルトの心に火を付けてくれました。 そして、肩に掛けるコートさえ用意出来たではありませんか。
そして、その夕べがやってきました。 ウイーン恒例の、キンスキー侯爵夫人の音楽界。侯爵邸の車寄せに集まって来る、黒塗りの馬車。高貴、華麗な衣装に包まれた麗人達。
宮廷に仕える高官、制服の徽章をちりばめたナイト達。クローク係は出番を惜しむこともなく鮮やかな対応です。 フロアーを仕切る厚いドア、 時折漏れる密やかなさざめき、グラスの触れる音、若い女性の嬌声。 仕切られたフロアーは見下ろす外の闇が屋敷を包みこんできています。
そこへ、夕闇を押しのけ黒のコートにハットを被り何か場違いを思わせる人物がやってきます。ドアーマンと喋っています。車寄せから、小走りで階段を上がり、フロントのクロークに招待状を見せていますね。やはり彼です。シューベルトが来たのです。 係がコートとハットを預かります。
其の時の係の顔、二人で唖然と顔を見合わせます。 衣装掛けに掛けたコートの背中にぶら下がっている質草の札ハットの中からも吊り下がる同じ札。 でも、シューベルトは平然と今夜の世話役に導びかれ、会場に入るのです。 人の背中には目がありません。 ほら、このコートの背中にも 垂れ下がっている 質札の紐。ああ、何か悪い予感がしますよ。カメラが、その 背中を執拗におい かけていきます。後ろの方からはもう指差す囁き、笑いを堪えた声が。。。。
つづく
2010年9月9日木曜日
ウィーン旅行より 第5回 映画 未完成交響楽
この物語はまだ若かりし日の、健康に冒され、貧困状態にあったシューベルトのストーリーになります。 当時、シューベルトは小学校の代用教員で、18才位。 音楽は父や兄に学び、その頃すでに作曲を始め、野バラ、菩提樹などの歌曲に手をそめていた時代です。 まだ十八、九の彼が小学校の代用教員だったのは、この校長が彼の父親だったからでした。
そんなある日、学校にシューベルトに面談したい人物が参りました。校長室の父親に呼ばれ、、亦何か失敗をしたのかと、恐る恐る入ってくる十八才の未成年。だが、そこで待っていた人物は思いがけない幸運をシューベルトにもたらすのです。
訪ねて来た人物の自己紹介はウィーン王立学友協会の主任技士。そして彼の口からの言葉、シューベルトをなんと感激させたことでしょうね。ウィーン社交界を牛耳る、エステルハージ伯爵のコンサートに招待作曲家として招待を受けたのです。
彼は11才の頃、王立礼拝堂の少年歌手でもあり、変性期を迎え学寮を去った経歴があります。パイプオルガンも弾けます。 曲目は今までずうーと温めたいた曲が浮かびあがります。 でも、気がかり心配が有るのですよ。そんななか、当代随一の伯爵夫人のコンサート会場に、彼はどうやって登場出来るのでしょう。
つづく
そんなある日、学校にシューベルトに面談したい人物が参りました。校長室の父親に呼ばれ、、亦何か失敗をしたのかと、恐る恐る入ってくる十八才の未成年。だが、そこで待っていた人物は思いがけない幸運をシューベルトにもたらすのです。
訪ねて来た人物の自己紹介はウィーン王立学友協会の主任技士。そして彼の口からの言葉、シューベルトをなんと感激させたことでしょうね。ウィーン社交界を牛耳る、エステルハージ伯爵のコンサートに招待作曲家として招待を受けたのです。
彼は11才の頃、王立礼拝堂の少年歌手でもあり、変性期を迎え学寮を去った経歴があります。パイプオルガンも弾けます。 曲目は今までずうーと温めたいた曲が浮かびあがります。 でも、気がかり心配が有るのですよ。そんななか、当代随一の伯爵夫人のコンサート会場に、彼はどうやって登場出来るのでしょう。
つづく
2010年9月4日土曜日
ウィーン旅行より 第4回 映画 未完成交響楽

シューベルトといえば、私の年代では先ず歌曲に馴染むゲーテの詩を思い浮かべます。それらを指折れば片手の指が、直ぐに握り拳になりますよね。菩提樹、野中のバラ、魔王、冬の旅、 美しき水車小屋の娘・・・
ゲーテは、 ウイーンの音楽の世界でも、非常に強い影響力を振るった鉄人です。あの階級制度の厳しかった王宮管理のもと、シューベルトが楽友協会の会友になるきっかけ、又は、交響曲が未完に終わったいきさつ、 立ちあがるまでのいきさつ。映画は物語りかもしれません。芸術は才能だけでは世に認められない。きっかけが其の人を押し上げるのだ。
ウイ-ンでの当時のシューベルトの生活の設定は、村の小学校の代用教員。彼は初めて村の質屋の門をくぐります。背中の愛蔵のギターのケースをカウンターに降ろし蓋を開け、愛しむかのように、其の本体を撫でる指。
その仕草を見ていた若い質屋の娘が、父親から回ってきた値段の金額を割り増しにして、 会計に回してしまうのです。シューベルトは思った以上の金額にと迷いながらでていきます。質屋の若い娘は、二階の自分の部屋の窓から、その様子ながめながら一冊の本をシューベルトの足元に投げるのです。驚き見上げる彼。娘は窓から笑いながら、さけびます。
「それはうちの質流れの詩集です。読んでください。」
彼は慌てて拾い上げます。 そして、つい余計な一言をさけびます。
「さっきは なにか余計に金額を戴いてしまったように思うのですが・・・」
娘はあたりを見回し、階段からかけおりてきます。
「そんな事が、パパに聞こえたら大変だわ、大きな声をださないで。」
と、手を引張り、坂の横道に連れて行くのです。
坂から見下ろす泉の周りには洗濯物を持ち寄った村の主婦が集まり、楽しそうに歌を歌い始める所でした。彼は娘を離れ近くからその様子を真剣に聞きいっているのです。
娘がそばに来て、
「あの歌はいま村中の人が歌っているのよ。」
彼は娘の顔に向き合い
「あの曲は、僕が作った歌なんだ。」
娘は、即座に
「そんな筈はないわ!あの曲はウイーン中で歌われているのよ。もし貴方の曲なら、凄い収入が有る筈よ。信じられないわ!」
彼は俯き加減に、こう言いました。
「私の作る曲は、覚えやすく、誰でもすぐ歌えてしまうのです。だから、私の楽譜は売れないのですよ。」
娘はそういう彼が大好きになってしまうのです。
つづく
2010年9月2日木曜日
2010年8月25日水曜日
ウィーン旅行より 第3回 迷宮のシェーンブルン宮殿
ウィーンの誇る世界遺産、シェーンブルン宮殿を歩きました。宮殿内部のいたる処にはめこめられた壁面の絵画、天井画、彫刻、ロココ様式を残した部屋、部屋、部屋。会場を埋める観光客の頭越しに私はこの近づき難い部屋の雰囲気に浸るのが精一杯でしたね。
次の部屋、又、次の部屋と彷徨う迷宮の会場内部。普段の展覧会場なら、自分の見たいと思う一点に絞って、それを見て満足出来るのですが、ここではそういうわけにはいきません。ガイドの案内に足を運ばせるだけですから。
さて、最後はいよいお楽しみのシェーンブルン宮殿のマリオネット劇場・・と書き始めましたら、細君からストップがかかりました。私がこれから書くこの劇場は勘違いでシェーンブルンの劇場ではありませんよ、と言われてしまいました。
はて、それなら何処の劇場なの?申し訳ないのですが、其処がどこだったか四人とも覚えていません。ウィーンと云う街は何処を歩いても白と灰色の尖塔に囲まれ、由緒ある時代をあらわしています。最後の結論は、今度はもう一度ウィーンだけ二、三泊の旅行を試みよう、なーんて笑い話で終わりです。
でも、其の場所、名前は分からなくても、現実に見たことは夢ではありません。其の劇場の舞台から五、六列目の中央に四人揃って座れたのですから。
舞台は、弦楽器が二つ、コントラバス バヨオリン、四人位いたかしら。流れた曲目は歌曲ではありませんでした。あの「美しき蒼きドナウ」後ろの席で、ここはオペラではないのか?とブーイングと云うわけでもないのだけれど、戸惑った感じがありましたね。
デモ演奏も適当に終わらせ、ステージに現れたテノール歌手オペラの一場面です。声に呼び寄せられるように、舞台の袖から現れる妖艶な美女と云う設定ですね。華やかな歌の掛けあいから、ラストのソプラノの悲痛な叫び、男のなおも、愛を追い求める激しい手の動き、女は打ち伏せるように楽屋え消える。
これからが、この劇場の本番。舞台も広がるように、楽器類、マイクなど、袖口の奥に目立たなくセットし直しされました。舞台の周りは薄暗く、中央は円を描くように照明されてます。
客席の暗がりが急にざわめきます。一人の男が背中に等身大の人形を軽々と背負い、舞台の階段を駆け上がり人形を抱きかかえ、お客に向い挨拶をさせます。ところが、人形が男の手が離れると、もろくも、くずれてしまいました。仕方なく、男は舞台の裾に身をひそめていた楽師に音楽をと、サインを送ります。
すると、どうでしょう!音楽の流れに身を任せ、人形は踊り始めたではありませんか!男と二人で蝶が絡み合うように歌を歌い、素敵な舞踊をみせてくれます。そして、これはモーツアールトの歌劇<魔笛>です。
終幕近く二人の掛け合いの言葉<パ、パ、バーパパゲーノ> <パ、パ、パーパパゲーナ>でも、所詮は人形。男が手を差し伸ばしても、もう脚を上げる気力もありません。男は抱きかかえ、もう一度ネジを巻くのですが、彼女は立ったまま動きません。無理に引き寄せようとした時、人形の手が不意に男の頬を思い切りひっぱたいて、彼女は倒れてしまいます。
言葉で書くと、こんな紙芝居になりますが、発声も、踊りも プロ級でしたよ。昔は本当の人形劇、とか 子供が怖がるギニョウル劇を見せるところも有ったと聞きます。私は充分楽しめました。
しかし、この劇場はどこだっだのでしょう。ご存知の方、いらっしゃいますか?
2010年8月20日金曜日
ウィーン旅行より 第2回 ボードレール

I君とはその後半月以上、お互い音信不通の状態のままになっていましたね。
其の後、OH、HOW DID IT GO!
彼と私には、フランスの詩人「ボードレール」に共感関係がありました。私はボードレールの「悪の華」見出しの前書「読者に~」を、W大の文学部にいたもう一人の友人T君に
「これ訳してみないか?卒論に必要なんだ。」
と持ちかけられ、原稿用紙1枚位ならと、取り組む事にしました。
単語は辞書を引けば済むけれど、文の脈絡も理解出来ず、単語を並べ睨めっこです。後は自分の頭の中で、詩を作り上げる作業。
訳詩が有る筈だからと私は神田の古本屋を歩き周りましたよ!立ち読みは、新宿紀伊国屋で何時間でも慣れていましたので、メモを取ることが苦手な私は「記憶する」というより「理解して来る」ことに腐心しましたね。
でも、其の訳を読んでも、何処がこれが名訳なのか、この中の何処にボードレールが居るのか分かりませんでしたね。ことに、最後の読者に呼びかける語彙の貧しさ、言い回しには唖然とします。
最後の読者への呼びかけの言葉、
「おお、お前達 この偽善者な読者よ」
私の言い回しと並べれば、こうも違います。
「おお!君たち、この猫被りの諸君よ!」
この様な文体で、私は彼に手渡し凄く喜ばれましたよ。
Aimer a loisir 気まぐれな 旅への 誘い
Aimer et mourir 愛 も 死も
Au pays qui te ressemble! 其れも 似たような 裏 表 さ
I君の心の葛藤も、このボードレールのこの詩が物語る何か哀しみが疾走していた筈。
二百十日の過ぎた秋口の避暑地の海辺、あの海の見張りやぐらも取り外され、海の家もなくなり淋しさは、打ち上げられたあれら大木の虚しさ。I君は江の島の浜辺で、ざわめきの消えた枕木に身を寄せ・・・・
これも若き日のウェルテルの哀しみの一ぺ―ジ。
つづく
2010年8月18日水曜日
ウィーン旅行より 第1回 オペラ座とモーツアルト
ウィーンのオペラ座と楽友協会に私を連れていく?頭の中には毎年のニューイヤーコンサートは、この楽友協会のホールで演奏されると云う聞き覚えがあるだけです。
話を聞き始めると、ここオペラ座は、国立歌劇場。モーツアルトのいたころは宮廷歌劇場だったわけで、モーツアルトがウィーンで活躍したのは、200年程前ですね。当時は宮廷楽師としての地位がなければ、貴族、セレブの援助を受けることが難しい階級制度がありました。
モーツアルトは若い時から、宮廷の大司教コロレド聖職者の、親密な保護が有ったと聞きます。ウィーンでの宮仕えの虚しさ。宮廷音楽に満足することができなくなた彼は不意に故郷のザルツブルグの我が家の部屋で、初めての短調、あの25番のシンフォニーK183を作曲したのでした。
時代の波は旧交響曲の流れに若さと新しさを求め「疾風怒涛運動交響曲」はウィーンを中心にあの有名な大詩人ゲーテ、「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」が音頭を取ったそう。
モーツアルトはこのト短調シンフォニーを手に、1773年秋、また宮廷楽師としての職務に戻るのです。この運動は諸国に身をひそめている音楽家も、容易にウイーンに近づかせなくし、あのベートーベンでさえ、モーツアルトのいるウーインには脚を伸ばすことを、躊躇った聞きます。
私が初めて、このト短調シンフォニーを聞いたきっかけは、戦後の二十歳代青春真っ盛りのころ、小林秀雄が書いたモーツアルトのこの言葉。
モーツアルトの TRITESSE ALLANTE
「悲しみは疾走する 涙は追いつけない」
此のセリフは、戦後の20歳台の若者の屈折した悩みに、どれほどの衝撃を与えたことか。
I君は私の文学、フランス語の唯一の友人で家が下北沢、私は明大前。私達は下北沢の駅でよく落合い古本屋めぐりをしながら、本屋のおやじさんから「此の裏の横町の奥に横光利一先生の家が有るんだよ。」と教えられると、其の通りを通るだけで、胸をときめかせたものです。
或る時、その彼が下北の駅で別れ際、普段とは別人のように口もきかず、背を向け反対のの出口へ手も振らず去って行きました。 私は非常に腹が立ちましたが、それならそれでと、自分の腹をくくりましたね。
つづく
2010年8月17日火曜日
夏休みの御宿(おんじゅく)

例年、恒例の黒船屋の親睦会です。 もう、何年続いているのでしょうか。息子、娘が小学校の頃からですから、もう30年近くになるのでは?
最初は多分家族旅行みたいに店を休み、夏ぐらい海水浴にでも連れて行こうか、と言う話だったと思います。当時はそれ程、店の仕事だけに、おいまわさられていた毎日でしたね。 疲れを知らない子供のように、朝から夜遅く迄。振り返ってみると、頑張っていたな、感慨に耽るものがあります。
でも、現在は子供達も自立し、私ども夫婦で気ままに気の逢う御常連の方々を誘い出かけております。そして今では、御夫婦連れて海辺の割烹旅館で総勢11名の夫婦連の方々を含めての親睦会になっています。今年は、私かパソコンを持ち込み、宴会中にスカイプを使い カリフォルニアにいる娘を会話に交えて、みなさまのご機嫌伺いが出来ました。昔から娘を知っていらしゃる御常連は大喜びでした。私は、パソコンを持ち歩き、料理を食べることができませんでしたがね。
毎年お世話になる旅館は「かいらく」。旅館のご主人とは彼が若い頃からの付き合いです。わがままをきいてもらい、のんびりさせてもらっています。写真は夜のご馳走。みなさん、美味しいと喜んでくださいます。
*かいらく
〒299-5103
千葉県夷隅郡御宿町新町539
TEL:0470-68-3231
http://blue.zero.jp/kairaku/index.html
2010年8月12日木曜日
2010年7月28日水曜日
Vienna ウィーン旅行
若い時、熱にうなさられたように、オスカーワイルドの刺激的言葉の虜 になっていました私は、この歳になって初めてオーストリアにやってきました。ハプスグルグ家がマジゃール貴族と妥協し、1867年ハンガリー大国の建設を認め、国君連合 、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねることに成立しました二重帝国です。
私のヨーロッパのイメージはあの世紀末のアート、文学。勿論、音楽はやはり、あのベートーベンもウィーンで逢うのも恐れたモーツァルトが主流でしたね。ベートーベンがウィーンに来た時は、すでにモーツァルトは他界して居たそうです。
ステファン大寺院、女帝マリア テレジアの夏の離宮。華麗なるロココ調のボヘミアンスタイル。快楽と哀愁に、霧のような吐息。そこで何が行われていたのか。
「上流社会を飾る芸術は、下層階級に巣食う犯罪に似ている。
芸実も犯罪も、どちらも異常な官能を刺激するところが似ている。」
石畳の裏路のすき間にはまだ前世期の馬車道、ひずめの脚跡を覗き見してきました。
2010年7月13日火曜日
2010年7月9日金曜日
ウィーンの夕立
「ビィエナの夕立
誰もが ボンソワール
思っても いない 俄か雨
あなたは旅行者なのさ。
bonsoir! bonnuit !
tu`nespa change A plus !」
俳句をムシュウ ヘルムート氏に書きかけてこんな断片・・・
旅行のご報告です。スイス、オーストリアと10日間の旅に出ていました。
ウイーンの旧市街の石畳を歩き、この時間の俄か雨。
凄い粒の全て流し去ろうとするかのように傘を開く暇もない。
毎日、買い物に出歩くあの人達。
もうご存じのはず。
若い男女は小さな傘に抱き合ったまま、
雲間の太陽を自分たちを邪魔しないで顔見せないでねと濡れた肌を絞るのさ。
街の店前の御常連。
ソフトクリィームを食べ終わりもしないでもう通りの真ん中を歩き始めるのです。
この七月の夕方の熱気は、まるで日本の夏並みなのですよ。
旅行記のブログは少しずつまた書き始めます。
取り急ぎ報告まで。
2010年6月18日金曜日
転校生 最終回
私も教室を抜け出してきたのか、追い出されてきたのか、分からない気分です。
運動場に出ました。北野小学校は全校生の数も少くなく、生徒に貸し出せるスポ-ツ用具は殆どありません。野球をする生徒もいません。ミットも、グローブもないのですから。ドッチボールで遊ぶボールがありません。兵隊ごっこするにも、鍔のある制帽がない。靴を履くどころか、草履、わらじ、亦は裸足です。
女子が四、五人で遊ぶのはお手玉位。おはじき、ビー玉はあったかな。何しろ、地域の周りには文具店、昔懐かしい駄菓子屋見たいな店一つないところですから。
運動場の中央では、六年男子が固まって、白墨で地面に大きな輪を書いて集まっています。私は隅に並んでる鉄棒に手を伸ばし、蹴上がりをしようと思いましたが、ぶらさがる高さの鉄棒がありません。それで、逆上がりから、前方回転、後方回転と色々小技を使い遊び半分に汗をかき始めると、いつの間にか周りに女生徒が私を囲むように、集まっているのです。私は東京の学校では鉄棒は選手でした。
得意になったわけではないけど、ここで派手な技を見せなければ、と私の肩に届く一番高い鉄棒の前に立ち、「富士下がり」をして見せ、最後に大きく前後に体を振り前方に鉄棒から足をはずして、飛び降りるのです。見た目は派手ですが以外に簡単な技です。でも歓声をあげてくれましたね。
そんな事を同級生の窓際の仲間が見てたのでしょう。私のところに呼び出しの誘いがきましたね。十人位が二手に分かれ陣取をしてるみたいです。この遊びに入れと云うことなんですが・・・
陣取りは二手に分かれ、それぞれの隊長を決め、その陣地の隊長を白墨で大きく書いた輪から押しだした方が勝ち。陣地の間には小さい円形が五、六個書かれそれぞれの兵隊が陣地を守り、敵を食い止めるのです。輪から出たら戦死です。そして、最後に敵地に入り込んだ隊長同士の戦いをするわけ、。
ゲームとしては輪の中から押し出せば終わりですが、それではお互い意味がありませんね。問題はゲームの勝負ではないからです。どちらかがお前にはかなわないと、おもわせなければ、仲間への面子が立たないと云うわけ。番長との対決です。
私は喧嘩をしたり、人を怒鳴りつけることはしたことがありません。今でも、人生を振り返り、勿論、私から手をだしたことはありませんね。相手に怪我をさせずに、うまく凹ますことが出来るかです。秘策があるのです。
相手は陣地で動かず、私の方から、小さな輪を飛び進みこんでくるのを待っています。私は小柄ですが、敏捷で、腰は三枚腰と云われた程、物事の瀬戸際の勝負に強いのです。相手は私が小さい輪から陣地に飛び移る瞬間を、突き出しに来る筈。でも、それでゲームの勝負はついても私をいためつけることにはなりませんね。私もそこでゲームを終わらせたくはありません。
先ず、うまく中に飛び込むことにしました。陣地の周りには、小さい歩兵陣がいくつも書かれています。其の中の三か所を踏み台に加速を付け、陣地に近いところから飛び込むとみせて、離れた場所から、飛び込もう。後は入った時に、蹴飛ばされないように、素早く相手の懐に飛び込むこと。
状況は上手く思ったとおり相手と組み合うことができました。ここから、私のとっておきの秘技を出すのです。柔道で言う、寄り戻しに似ているけど、一寸違います。自分では「風車」とも名づけようとも、三船十段の「空気なげ」に憧れていた頃です。どれも相手の力を利用した変則技です。いままで三回ほど使いましたよ。幾分、合気道に似ています。門外不出の技と言われていましたね。私は自分で遊び心で考えた遊び技ですが、言葉で説明は難しいですね。
相手と組んだら、右に投げると見せかけ左に寄り戻しをかけながら、相手の腰を前に引き落とし気味に相手の身体を浮かせるのです。右へ回りこみ一瞬腰が浮いた瞬間を狙い、風車のようにぐるぐる回すのです。相手の足が宙に浮きながら、風車のようにまわすことができるのです。相手の体を浮かせるように、自分の身体を後ろに後退させながら、右へ右へと、自分も回り込むのです。遠心力で相手の足が地面から離れ、もう身体が水平にに宙に浮き、なすすべもなくなり、そっと、降ろしてやっても暫くは立ちあがれませんよ。立ちあがっつた時は、戦意喪失で、すごすごと引き下がるだけです。
これで、私は相手を傷つけず、クラス組での力関係のトップに立ったことになります。よく父親が子供を抱き上げて、そら、タカイ高い!と、遊んでる光景は良くみますね。あれは、体力差が違いすぎるから出来るので、私は相手がアスリート系の人は別として、普通の人となら遊びとしては、ひけを取ることはありませんでした。
長い間こんな詰まらないお話はここで終わらせていただきます。
運動場に出ました。北野小学校は全校生の数も少くなく、生徒に貸し出せるスポ-ツ用具は殆どありません。野球をする生徒もいません。ミットも、グローブもないのですから。ドッチボールで遊ぶボールがありません。兵隊ごっこするにも、鍔のある制帽がない。靴を履くどころか、草履、わらじ、亦は裸足です。
女子が四、五人で遊ぶのはお手玉位。おはじき、ビー玉はあったかな。何しろ、地域の周りには文具店、昔懐かしい駄菓子屋見たいな店一つないところですから。
運動場の中央では、六年男子が固まって、白墨で地面に大きな輪を書いて集まっています。私は隅に並んでる鉄棒に手を伸ばし、蹴上がりをしようと思いましたが、ぶらさがる高さの鉄棒がありません。それで、逆上がりから、前方回転、後方回転と色々小技を使い遊び半分に汗をかき始めると、いつの間にか周りに女生徒が私を囲むように、集まっているのです。私は東京の学校では鉄棒は選手でした。
得意になったわけではないけど、ここで派手な技を見せなければ、と私の肩に届く一番高い鉄棒の前に立ち、「富士下がり」をして見せ、最後に大きく前後に体を振り前方に鉄棒から足をはずして、飛び降りるのです。見た目は派手ですが以外に簡単な技です。でも歓声をあげてくれましたね。
そんな事を同級生の窓際の仲間が見てたのでしょう。私のところに呼び出しの誘いがきましたね。十人位が二手に分かれ陣取をしてるみたいです。この遊びに入れと云うことなんですが・・・
陣取りは二手に分かれ、それぞれの隊長を決め、その陣地の隊長を白墨で大きく書いた輪から押しだした方が勝ち。陣地の間には小さい円形が五、六個書かれそれぞれの兵隊が陣地を守り、敵を食い止めるのです。輪から出たら戦死です。そして、最後に敵地に入り込んだ隊長同士の戦いをするわけ、。
ゲームとしては輪の中から押し出せば終わりですが、それではお互い意味がありませんね。問題はゲームの勝負ではないからです。どちらかがお前にはかなわないと、おもわせなければ、仲間への面子が立たないと云うわけ。番長との対決です。
私は喧嘩をしたり、人を怒鳴りつけることはしたことがありません。今でも、人生を振り返り、勿論、私から手をだしたことはありませんね。相手に怪我をさせずに、うまく凹ますことが出来るかです。秘策があるのです。
相手は陣地で動かず、私の方から、小さな輪を飛び進みこんでくるのを待っています。私は小柄ですが、敏捷で、腰は三枚腰と云われた程、物事の瀬戸際の勝負に強いのです。相手は私が小さい輪から陣地に飛び移る瞬間を、突き出しに来る筈。でも、それでゲームの勝負はついても私をいためつけることにはなりませんね。私もそこでゲームを終わらせたくはありません。
先ず、うまく中に飛び込むことにしました。陣地の周りには、小さい歩兵陣がいくつも書かれています。其の中の三か所を踏み台に加速を付け、陣地に近いところから飛び込むとみせて、離れた場所から、飛び込もう。後は入った時に、蹴飛ばされないように、素早く相手の懐に飛び込むこと。
状況は上手く思ったとおり相手と組み合うことができました。ここから、私のとっておきの秘技を出すのです。柔道で言う、寄り戻しに似ているけど、一寸違います。自分では「風車」とも名づけようとも、三船十段の「空気なげ」に憧れていた頃です。どれも相手の力を利用した変則技です。いままで三回ほど使いましたよ。幾分、合気道に似ています。門外不出の技と言われていましたね。私は自分で遊び心で考えた遊び技ですが、言葉で説明は難しいですね。
相手と組んだら、右に投げると見せかけ左に寄り戻しをかけながら、相手の腰を前に引き落とし気味に相手の身体を浮かせるのです。右へ回りこみ一瞬腰が浮いた瞬間を狙い、風車のようにぐるぐる回すのです。相手の足が宙に浮きながら、風車のようにまわすことができるのです。相手の体を浮かせるように、自分の身体を後ろに後退させながら、右へ右へと、自分も回り込むのです。遠心力で相手の足が地面から離れ、もう身体が水平にに宙に浮き、なすすべもなくなり、そっと、降ろしてやっても暫くは立ちあがれませんよ。立ちあがっつた時は、戦意喪失で、すごすごと引き下がるだけです。
これで、私は相手を傷つけず、クラス組での力関係のトップに立ったことになります。よく父親が子供を抱き上げて、そら、タカイ高い!と、遊んでる光景は良くみますね。あれは、体力差が違いすぎるから出来るので、私は相手がアスリート系の人は別として、普通の人となら遊びとしては、ひけを取ることはありませんでした。
長い間こんな詰まらないお話はここで終わらせていただきます。
2010年6月10日木曜日
転校生 第8回
教室での喧騒は相変わらず、窓際の男子生徒です。
先生が入ってきて、授業が始まり、先生が黒板に向かい、チョークで何か書き始めると、もう勝手なふざけ合い、物を投げる、椅子をガタつかせる、隣の女生徒をからかい始める、女生徒の甲高い笑い声。そろそろ先生の忍耐が切れるころですね。
先生が教壇の端に立ち、怒鳴ります。
「おい、お前達、そんなにふざけたいなら、教室を出て行きなさい。」
一瞬彼らも静まりますが、それこそ、待ってましたとばかりゾロゾロ出て行きます。外は初夏の明るい空。女生徒も何となくついでに出て行くと、反対側の生徒も二人、三人と続きます。
そして、残るのは級長、女子副級長それに私。
先生も、何時ものことで驚きもしません。
「お前達も、この時間、外で遊んで来い。」
もうすぐ夏休みがやってきます。東京に帰れる。うれしい!でも、この頃、私は土曜日の午後は家へ帰ることにしていました。映画を見に行くんだ。デパートのお子様ランチ。母親と一緒に街を歩く楽しみ。
そして、日曜日の夕方、新宿から八王寺まで中央線に乗るのですが、電車が街の中を走っているところからだんだん何もない夕焼け空を眺めてぽつんと窓の外以外は見回すこの出来ない淋しさ、唯、情けないおもいでしたよ。
そんな時に、何処で読んだ一茶の言葉か、今でも呟くことが有りますが、こんな言葉です。
「唯 嘆け、汝が 性の拙さを」
こんな言葉を理解してた自分が居た不思議をおまじないみたいに大事にしています。
八王子から柚木村行きの最終便がでます。それに乗る時間待ちを街の古本屋で何時も時間を調整します。当時私は時計など持たされていなかった筈、でもバスの時刻どおり動くことはできていましたね。
本屋で買うのは、江戸川乱歩の小説、それから捕り物帳などです。もうその時間は街も薄暗くバス停の車庫の周りだけ明るい電光に照らされている時間です。乗車する人も少なく、お互い見知らぬ人達。多分終点迄乗っているのは私だけ。時間は四、五十分位掛かる筈。多分一人だけで降りて帰る筈。桑畑の中を突き抜ければ
早いのですが、夜はそんなまねができませんよね。農道を大きくりながら少し坂の小道を一目散に家にとびこむのです。
こんな話は閑話休題です。空になった教室の続きを今度書きます。
つづく
先生が入ってきて、授業が始まり、先生が黒板に向かい、チョークで何か書き始めると、もう勝手なふざけ合い、物を投げる、椅子をガタつかせる、隣の女生徒をからかい始める、女生徒の甲高い笑い声。そろそろ先生の忍耐が切れるころですね。
先生が教壇の端に立ち、怒鳴ります。
「おい、お前達、そんなにふざけたいなら、教室を出て行きなさい。」
一瞬彼らも静まりますが、それこそ、待ってましたとばかりゾロゾロ出て行きます。外は初夏の明るい空。女生徒も何となくついでに出て行くと、反対側の生徒も二人、三人と続きます。
そして、残るのは級長、女子副級長それに私。
先生も、何時ものことで驚きもしません。
「お前達も、この時間、外で遊んで来い。」
もうすぐ夏休みがやってきます。東京に帰れる。うれしい!でも、この頃、私は土曜日の午後は家へ帰ることにしていました。映画を見に行くんだ。デパートのお子様ランチ。母親と一緒に街を歩く楽しみ。
そして、日曜日の夕方、新宿から八王寺まで中央線に乗るのですが、電車が街の中を走っているところからだんだん何もない夕焼け空を眺めてぽつんと窓の外以外は見回すこの出来ない淋しさ、唯、情けないおもいでしたよ。
そんな時に、何処で読んだ一茶の言葉か、今でも呟くことが有りますが、こんな言葉です。
「唯 嘆け、汝が 性の拙さを」
こんな言葉を理解してた自分が居た不思議をおまじないみたいに大事にしています。
八王子から柚木村行きの最終便がでます。それに乗る時間待ちを街の古本屋で何時も時間を調整します。当時私は時計など持たされていなかった筈、でもバスの時刻どおり動くことはできていましたね。
本屋で買うのは、江戸川乱歩の小説、それから捕り物帳などです。もうその時間は街も薄暗くバス停の車庫の周りだけ明るい電光に照らされている時間です。乗車する人も少なく、お互い見知らぬ人達。多分終点迄乗っているのは私だけ。時間は四、五十分位掛かる筈。多分一人だけで降りて帰る筈。桑畑の中を突き抜ければ
早いのですが、夜はそんなまねができませんよね。農道を大きくりながら少し坂の小道を一目散に家にとびこむのです。
こんな話は閑話休題です。空になった教室の続きを今度書きます。
つづく
2010年5月26日水曜日
転校生 第7回
峠のソマ道(杣道)に入ると、日差しが木漏れ日となって、道を長く照らしてくれています。
はじめのうちは、もの珍しく眺めながら歩くことが出来たのですが、でも何故か背後が怖いのです。鳥も鳴いてはくれません。 先え 先えと足早に歩きます。怖いのです。木の葉のざわめき、あの音。ザワ、ザワと私を追いかける音。私はもうつま先立ちで、逃げ腰に急ぎました。 こんな姿勢でと思うでしょうが、本能的にこの構えが、何時でも身体をよけることが出来るのです。
風がゆするあの音、ザワ、ザワ。木々の悲鳴のように背中に張りついてきます。
この道には私が悲鳴をあげます。どこかに、崖の斜面を降りられるならと、見回しますが、崖はもう飛び降りるほかは無理。 ザワ、ザワという音はもう背中ではなく頭にかぶさるように追いかけてきます。
私は何処か道が切れるような場所を一心にさがしましたよ。有りましたね、獣道と云ううのかこれが杣道なのか、斜に、ジグザグな斜面、これを降りて柚木村に唯り付くかは、もうどうでもいいのです。
中腹までおりると、もう視界が見渡すことができました。 切り開いた斜面に何と畑があるではありませんか。それも桑畑ではなく、野菜畑。男の人が仕事をしています。
心境としては話が通じるのか、なにか私が異邦人になったみたい、東京から一人で来て、戻る先もわからず、他所の人を窺っている情けない自分。 たかが小一時間の散歩道です。でも子供心に感じた次元の違う場所では時間は関係ありませんでした。
降りてきた場所は他所の村です。 柚木村は東の方角へ、太陽が昇るほうに歩こう。
つづく
はじめのうちは、もの珍しく眺めながら歩くことが出来たのですが、でも何故か背後が怖いのです。鳥も鳴いてはくれません。 先え 先えと足早に歩きます。怖いのです。木の葉のざわめき、あの音。ザワ、ザワと私を追いかける音。私はもうつま先立ちで、逃げ腰に急ぎました。 こんな姿勢でと思うでしょうが、本能的にこの構えが、何時でも身体をよけることが出来るのです。
風がゆするあの音、ザワ、ザワ。木々の悲鳴のように背中に張りついてきます。
この道には私が悲鳴をあげます。どこかに、崖の斜面を降りられるならと、見回しますが、崖はもう飛び降りるほかは無理。 ザワ、ザワという音はもう背中ではなく頭にかぶさるように追いかけてきます。
私は何処か道が切れるような場所を一心にさがしましたよ。有りましたね、獣道と云ううのかこれが杣道なのか、斜に、ジグザグな斜面、これを降りて柚木村に唯り付くかは、もうどうでもいいのです。
中腹までおりると、もう視界が見渡すことができました。 切り開いた斜面に何と畑があるではありませんか。それも桑畑ではなく、野菜畑。男の人が仕事をしています。
心境としては話が通じるのか、なにか私が異邦人になったみたい、東京から一人で来て、戻る先もわからず、他所の人を窺っている情けない自分。 たかが小一時間の散歩道です。でも子供心に感じた次元の違う場所では時間は関係ありませんでした。
降りてきた場所は他所の村です。 柚木村は東の方角へ、太陽が昇るほうに歩こう。
つづく
2010年5月25日火曜日
マネとモダンパリ

マネ回顧展、行ってきました。やはり ベルト モリズの絵がなんど見ても飽きません。黒の使い方が勉強になりましたよ。
昔こんな句を作りましたね。
喪の花の リラ胸に抱く マネの絵 ノブ
---
「今年4月に東京・丸の内にオープンした三菱一号館美術館の開館記念展となる本展は、マネの芸術の全貌を、当時のパリが都市として変貌していく様子と結びつけながら、代表的作品により展覧しようとするもので、マネの油彩、素描、版画80点余が出品されます。また、同時代の作家たちの油彩、建築素描、彫刻、写真など約80点もあわせて展示し、マネが生きたパリの芸術的な背景も紹介します。日本でマネの作品をまとまった形で見ることができる貴重な機会です。」
期間: 2010年4月6日~7月25日
会場:三菱一号館美術館
(東京都千代田区丸の内2-6-2)
問合せ先:03-5777-8600
休館:月曜日
http://mimt.jp/manet/index.html
2010年5月22日土曜日
画集「KAYA 」初版
画集「KAYA 」初版の印刷が数週間であがってくるそうです。まずは試しに1冊。全部で70ページの初の画集になります。そのうちの数ページは以下からご覧いただけますので是非どうぞ。
転校生 第6回
私が喋り出そうとすると・・・窓際の背の高い子が立ち上がります。
「先生、その生徒は、東京から通うのですか?」
先生「いいや、皆と同じこの南多摩郡の土地で、生活し、同じ空気を吸うんだよ。皆、よろしく頼むよ。」
私は、すばやく彼らに頭を下げ「よろしくお願いします。」とだけ言い、自分の席と教えられた最後列の机につきました。その日はなんとなくぽつんと、過ごすだけで終わったのでした。
数日が過ぎ、私はいつものようにバス停で峠を越えるバスの時間を踏み切り番のおじさんと言葉交わしながらあと一時間をどう過ごそうかぼんやりしていました。
そこへ私たちの組のあまり目立たない男の子、名前は分かりません、彼が云うのです。
「俺、峠に家があるんだ、峠まで歩こうよ。」誘ってくれたのです。お互い、名前など呼ぶほどの仲ではありません。お前、俺の世界です。でもK君と呼ばれていたようにも思いましたね。
私は彼に聞きました。
「何時もなにしているの?」
「野鳥を山に取りに行くんだ。今度の土曜日つれてくよ。」
峠の中腹まで来ましたがまだこの先が急坂できつい登り坂になります。二人で崖ぎわの道を避け反対側の道路に座り込みました。
彼が喋り出しました。
「この峠を俺たちは猿丸峠と云うんだ。この天辺には、色んな鳥が林の上を飛びぬける空の道があるんだぞ。そこを通り抜ける鳥は頭を突っ込んで逃げられなくなるんだ。でも許可を持たない人は、そんなことしたら罰せられるだ。カスミ網を使わなくても、笊と紐さえあれば、ウズラでも野鳥でも採れるんだ。」
そんな話で時間を潰してもバスは来ません。私は腕時計など持っていなかった筈。急坂を一気にのぼれば峠です。
彼は峠の水が誰でも飲める所に連れてきて
「ここで水を飲み、前方の山の尾根つたいに降りて行けば、柚木村だよ。」と行ってしまいました。
峠の道を降りるより近いのは分りますが、一人で飛び込んで行くのには勇気が入ります。でも、もう段取りはできてしまったのです。
つづく
「先生、その生徒は、東京から通うのですか?」
先生「いいや、皆と同じこの南多摩郡の土地で、生活し、同じ空気を吸うんだよ。皆、よろしく頼むよ。」
私は、すばやく彼らに頭を下げ「よろしくお願いします。」とだけ言い、自分の席と教えられた最後列の机につきました。その日はなんとなくぽつんと、過ごすだけで終わったのでした。
数日が過ぎ、私はいつものようにバス停で峠を越えるバスの時間を踏み切り番のおじさんと言葉交わしながらあと一時間をどう過ごそうかぼんやりしていました。
そこへ私たちの組のあまり目立たない男の子、名前は分かりません、彼が云うのです。
「俺、峠に家があるんだ、峠まで歩こうよ。」誘ってくれたのです。お互い、名前など呼ぶほどの仲ではありません。お前、俺の世界です。でもK君と呼ばれていたようにも思いましたね。
私は彼に聞きました。
「何時もなにしているの?」
「野鳥を山に取りに行くんだ。今度の土曜日つれてくよ。」
峠の中腹まで来ましたがまだこの先が急坂できつい登り坂になります。二人で崖ぎわの道を避け反対側の道路に座り込みました。
彼が喋り出しました。
「この峠を俺たちは猿丸峠と云うんだ。この天辺には、色んな鳥が林の上を飛びぬける空の道があるんだぞ。そこを通り抜ける鳥は頭を突っ込んで逃げられなくなるんだ。でも許可を持たない人は、そんなことしたら罰せられるだ。カスミ網を使わなくても、笊と紐さえあれば、ウズラでも野鳥でも採れるんだ。」
そんな話で時間を潰してもバスは来ません。私は腕時計など持っていなかった筈。急坂を一気にのぼれば峠です。
彼は峠の水が誰でも飲める所に連れてきて
「ここで水を飲み、前方の山の尾根つたいに降りて行けば、柚木村だよ。」と行ってしまいました。
峠の道を降りるより近いのは分りますが、一人で飛び込んで行くのには勇気が入ります。でも、もう段取りはできてしまったのです。
つづく
2010年5月21日金曜日
観音崎より城ヶ島 第3回
ここから車は葉山へ。日はもう西へ傾き加減4時近くになります。
葉山御用邸近く、Iさんがこの辺でケーキ屋さんへ入ろう、と突然車を止めさせました。少し行き過ぎたけど、崖沿いに、成程、瀟洒な店構えがあります。車を坂上の一寸とした広場につっこみ、房総半島をも見渡せる海を眺めながら、その店へと出かけました。
入口のテラスからカウンターの受付迄待ってる人です。店の女性が予約の名前と人数をメモしていきます。でも、店の中で食べる人は割と待たずに入れています。並んでいる人達はお土産を買いに来ている人達なのです。私達三人は簡単に中に入り、注文することが出来ました。
なんで、ここは有名なんだろう、とメニューを見ますと「カフエ レストラン マーロウ」店の略歴は知らないけれど、早川ミステリーのファンなら、この咥え煙草の男性フィリップマーロウのことだとわかる筈。
私も私立探偵になった気分で、店内を眺めまわしました。インテリアも素晴らしく、調度も椅子テーブルも一級品。各席も幾つかの部屋で区切られ、ゆったりとした気分でカフェとケーキのひと時で感慨に耽ることができます。中折れ帽のひさしの陰からキラリと光るマーロウの目。
そこで店員の女性が入ってきて云うのです。
「当店は五時までの営業でございます。お土産の品も残り少なく、御注文の品がありましたら承りますが」

それで、私達も土産のプリン、ケーキなど買わされ、帰途に就くのでした。
Iさん、Tさん、一日お世話様でした。お陰様で楽しい旅でした。またどこか連れて行ってください。よろしく。
※プリンの有名なマーロウ
葉山店 三浦郡葉山町掘内2038-10
046-875-0412
http://www.marlowe.co.jp
お試しあれ。
葉山御用邸近く、Iさんがこの辺でケーキ屋さんへ入ろう、と突然車を止めさせました。少し行き過ぎたけど、崖沿いに、成程、瀟洒な店構えがあります。車を坂上の一寸とした広場につっこみ、房総半島をも見渡せる海を眺めながら、その店へと出かけました。
なんで、ここは有名なんだろう、とメニューを見ますと「カフエ レストラン マーロウ」店の略歴は知らないけれど、早川ミステリーのファンなら、この咥え煙草の男性フィリップマーロウのことだとわかる筈。
私も私立探偵になった気分で、店内を眺めまわしました。インテリアも素晴らしく、調度も椅子テーブルも一級品。各席も幾つかの部屋で区切られ、ゆったりとした気分でカフェとケーキのひと時で感慨に耽ることができます。中折れ帽のひさしの陰からキラリと光るマーロウの目。
そこで店員の女性が入ってきて云うのです。
「当店は五時までの営業でございます。お土産の品も残り少なく、御注文の品がありましたら承りますが」
それで、私達も土産のプリン、ケーキなど買わされ、帰途に就くのでした。
Iさん、Tさん、一日お世話様でした。お陰様で楽しい旅でした。またどこか連れて行ってください。よろしく。
※プリンの有名なマーロウ
葉山店 三浦郡葉山町掘内2038-10
046-875-0412
http://www.marlowe.co.jp
お試しあれ。
2010年5月20日木曜日
観音崎より城ヶ島 第2回
この町の反対側には北原白秋記念館のある「通り矢のはな」、
「雨は 降るふる 通り矢のはなを、利休ねずみの 雨がふる」
やっと記念館につき、嬉しいことに、入場料は、ここの教育委員会が管理しているので、無料。十分一めぐりして、投句用紙に一句。係のおばさまに発表は来月と言われました。
これから三浦三崎の漁港でランチです。「神湊」と宣ふ店の上がり「かまち」にある畳のテーブルにつくことができました。そこは、定食が二種類だけ、「わくわく」2千円と「ニコニコ」千5百円だけ。私は小食なので、ニコニコ定食にしました。Iさんはビールとお酒で、気分よく食事を終えましたが、神奈川県内は条例でどこも禁煙区間になり、愛煙家の二人は苦痛だったかな、とお見受けしましたが。
ランチタイムの時間が過ぎ、もう客は私達だけ。店の旦那も板場からいなくなり、急にお女将の口が喋りだします。こちら3人は口を挟む気もなく、「ここの店だけが輸入ものの魚を扱わず、よその店は地元の魚を扱わない」聞こえましたがね。
店を出て角店の干物店で、私達は今、能書きを聞かされたノルウェー産の鯖の干物、輸入ものだと聞かされた品物を買いました。どこの鯖でもサバは鯖、フランス語ならCA’VAどうってことはないさ!サバ ビヤンとでもいいましょうか。
駐車場で、車のトランクを開け、生もの、干物は発泡スチロールの箱に氷と共に押し込みます。
つづく
2010年5月19日水曜日
観音崎より城ヶ島 第1回
5月15日土曜の朝の7時、黒船屋を出発、Iさんの車です。運転の交代要員は勿論Tさん。三浦半島一周の日帰り気まま旅です。午前中なので横浜、横須賀をすどおりし、観音崎まで一息できました。
駐車場に車を入れ、まずは浜で一休み。ここで、出会ったのが写真のアフリカ インコ。尻尾が赤く、言葉を理解しています。「握手!」と呼びかけると、私の手を軽く握ってくれましたよ。インコの連れのおじさん、晴れの日は、毎日ご出勤らしく、観光客の人気ものです。
さて、腰を上げ観音崎灯台の螺旋階段です。結構足早に上りましたね。見学を終えて、ここから先、ハンドルを握るのは、Tさんです。そろそろ腹も空きかげん、城が島へ向かいます。城が島大橋をくぐれば、寡っての名残の三崎を望み、島の街中に入りました。先ずは軽く何処かで休みたい。 でも、表通の呼び込みのある店は駄目といい、裏道を抜けみつけました。運転する人は飲んでは駄目、Iさんと私と二人でビールです。 つまみは自家製塩辛、これは美味い、と云うう代物でした。お土産に持ち帰れるか、と聞いた答えが又気に入りましたね。
「お持ち帰りの時間が、二時間以内の方ならばお分けできます。」
結局、買えずに店をでましたが、岩場の海辺で、焼トウモロコシを齧りながら、塩辛が頭から離れない。
戻りの道もあの裏道を抜け、さっきの店に行き、中の娘さんに氷漬けにしてもらい買うことが出来ました。
つづく
2010年5月18日火曜日
青山学院クラス会
何時も欠席届でNさんに申し訳ないと思ってます。
私は小学生の頃、結核と言われ、一年留年しました。その後、青山学院中等部の昭和二十年に招集令状で、兵役になり、終戦後に我が家に戻りました。それ以来、学院とは疎遠になり、未だに卒業証書なるものも、見た事がありません。
それでと言うわけではありませんが、家内から「行ってらしゃい」と言われても 消極的になり、それに私を知る人もないと思います。
今年六月は、ウイーン、ザルツブルグへと出かけます。ウィーンフィルのビオラ奏者であるH氏と懇意にしてまして、彼からの誘いを実現する、最後の機会なのです。
私は小学生の頃、結核と言われ、一年留年しました。その後、青山学院中等部の昭和二十年に招集令状で、兵役になり、終戦後に我が家に戻りました。それ以来、学院とは疎遠になり、未だに卒業証書なるものも、見た事がありません。
それでと言うわけではありませんが、家内から「行ってらしゃい」と言われても 消極的になり、それに私を知る人もないと思います。
今年六月は、ウイーン、ザルツブルグへと出かけます。ウィーンフィルのビオラ奏者であるH氏と懇意にしてまして、彼からの誘いを実現する、最後の機会なのです。
2010年5月10日月曜日
転校生 第5回
バスは北野車庫から八王子行きの上りです。勿論、バスの停留所は峠までは見当たりませんでしたね。乗りたいお客さんは手を上げさえすれば、バスは何処でも止めて貰えるようでした。
土地の人には、自家用の車が生活必需品。小型自動車、ダットサン。自転車は村から村へ、農家から農家へ、電話の代わりをつとめる無医村なのです。バスは野猿峠には止まらず、降りの坂を北野京王電車駅まで降りる人は在りません。この駅裏が北野小学校です。
校門から正面に見える校舎は二階建の木造で、校庭は十五メートル四方位で小さな砂場の背の低い鉄棒がありましたね。所謂僻地の分校かな、と云う感じです。
教頭に連れられ、先ず教員室で校長先生、担任との挨拶をすませ、二階の教室に引率され、教壇に立たされました。男女共学で、四列で、一列四、五人、両端が男子、真ん中が女子です。
制服は勿論、ありません。女子は殆ど着物、男子も三分の一が着物でした。足元は裸足、スリッパ、草鞋。運動靴は私と級長の男子、副級長の女子が履いていました。
級長が立ち上がります。
「起立、先生に 礼!」生徒「先生、お早う御座います!」
言葉だけを並べますと、規律の整った整然とした教室に思えますが、殊に、窓際の男子たちは騒ぐは、喋るはで、先生が何云おうと、馬耳東風。
それでも、私が挨拶の言葉を喋り出そうとすると・・・・
つづく
土地の人には、自家用の車が生活必需品。小型自動車、ダットサン。自転車は村から村へ、農家から農家へ、電話の代わりをつとめる無医村なのです。バスは野猿峠には止まらず、降りの坂を北野京王電車駅まで降りる人は在りません。この駅裏が北野小学校です。
校門から正面に見える校舎は二階建の木造で、校庭は十五メートル四方位で小さな砂場の背の低い鉄棒がありましたね。所謂僻地の分校かな、と云う感じです。
教頭に連れられ、先ず教員室で校長先生、担任との挨拶をすませ、二階の教室に引率され、教壇に立たされました。男女共学で、四列で、一列四、五人、両端が男子、真ん中が女子です。
制服は勿論、ありません。女子は殆ど着物、男子も三分の一が着物でした。足元は裸足、スリッパ、草鞋。運動靴は私と級長の男子、副級長の女子が履いていました。
級長が立ち上がります。
「起立、先生に 礼!」生徒「先生、お早う御座います!」
言葉だけを並べますと、規律の整った整然とした教室に思えますが、殊に、窓際の男子たちは騒ぐは、喋るはで、先生が何云おうと、馬耳東風。
それでも、私が挨拶の言葉を喋り出そうとすると・・・・
つづく
2010年5月9日日曜日
2010年5月8日土曜日
2010年4月11日日曜日
転校生 第4回
「ごはんだよ!」と下のチビが布団をかぶり寝たふりをしてる私を覗きこむように起こしにきます。此の娘は何かと人のことをかまいにきて、夕方、土間のタタキに据え付けられた薪風呂に入っていても、「ぬるくない?」などと、風呂の中を覗きこむのです。
姉二人は母親の家事の手伝いに追われ、興味深く目線で私をおいかけますが、口を聞くような機会を避けているように振舞ってくれていました。会話はこちらから何かを頼む時、バスの時間を調べて貰う時、そんなこと以外はこちらの顔を見て、二人して笑いながら逃げてしまいます。
末娘がわたしの挙動を何かと報告をし、三人姉妹で何が嬉しいのか、首を寄せ合い、笑いが絶えませんでしたね。
今日は私の初めての登校日です。味噌汁が何時もと違い、ケンチン汁でした。鉄鍋が居間の囲炉裏にぶら下げてあり薪の燠火が赤く白い灰からのぞいています。おかずは、お新香さえあればもう十分。お茶碗が大きいのでそれだけでもう食べられません。
家のおやじさんはもう朝飯を食べ終え、登校の支度も終えて、私を待っているみたいです。一応ランドセルに筆記用具、ノートをぶら下げ、革靴を履いて行こうとしていたら、教頭のおやじさんから、声がとびます。
「運動靴で行きなさい。」続いて手拭を姉さんかぶりにしたおかみさんから声がとびます。「はい、これ、お弁当!」家族に見送られ土間のタタキに揃えてくれた、運動靴を履いて並んで門か出発です。
南正面に屋根の付いた門があります。家が少し高台にありますので、入口に立つと、柚木村の半分が見渡せます。バス通りにつながる農道が、車一台通れる位の幅で、桑畑の真ん中を通っています。桑畑が何坪か知りませんが、駐在所の二階屋があります。お巡りさんの姿を、見たことが有りません。でも、朝の通学に行くようになると、OL風衣装の娘さんとバス停で一緒になるのです。
まだ半月、知らない土地で、なんとなく挨拶出来る人、釣り具やのおじさん、家の三人娘の末っ子。駐在のこの姉さん。柚木村にも小学校は在る筈なのに、幸いなことか姿を見た事事がありません。
つづく
姉二人は母親の家事の手伝いに追われ、興味深く目線で私をおいかけますが、口を聞くような機会を避けているように振舞ってくれていました。会話はこちらから何かを頼む時、バスの時間を調べて貰う時、そんなこと以外はこちらの顔を見て、二人して笑いながら逃げてしまいます。
末娘がわたしの挙動を何かと報告をし、三人姉妹で何が嬉しいのか、首を寄せ合い、笑いが絶えませんでしたね。
今日は私の初めての登校日です。味噌汁が何時もと違い、ケンチン汁でした。鉄鍋が居間の囲炉裏にぶら下げてあり薪の燠火が赤く白い灰からのぞいています。おかずは、お新香さえあればもう十分。お茶碗が大きいのでそれだけでもう食べられません。
家のおやじさんはもう朝飯を食べ終え、登校の支度も終えて、私を待っているみたいです。一応ランドセルに筆記用具、ノートをぶら下げ、革靴を履いて行こうとしていたら、教頭のおやじさんから、声がとびます。
「運動靴で行きなさい。」続いて手拭を姉さんかぶりにしたおかみさんから声がとびます。「はい、これ、お弁当!」家族に見送られ土間のタタキに揃えてくれた、運動靴を履いて並んで門か出発です。
南正面に屋根の付いた門があります。家が少し高台にありますので、入口に立つと、柚木村の半分が見渡せます。バス通りにつながる農道が、車一台通れる位の幅で、桑畑の真ん中を通っています。桑畑が何坪か知りませんが、駐在所の二階屋があります。お巡りさんの姿を、見たことが有りません。でも、朝の通学に行くようになると、OL風衣装の娘さんとバス停で一緒になるのです。
まだ半月、知らない土地で、なんとなく挨拶出来る人、釣り具やのおじさん、家の三人娘の末っ子。駐在のこの姉さん。柚木村にも小学校は在る筈なのに、幸いなことか姿を見た事事がありません。
つづく
2010年4月2日金曜日
2010年3月30日火曜日
転校生 第3回

水車が動きはじめると、其処に一人で隠れるようにひっくりかえって居られるほど、私はませた子供ではありませんでした。捜しに来てくれる友達もなく、近所の大人の顔さえも見たこともないわけですから。
しかし、農道から一寸した広場まで出てくると子供でも入れる駄菓子屋みたいな釣り道具屋があるのです。小遣いだけは、母から持たされていましたから地元の子供たちより、いいお客さんだったはず。そのお店に気軽に出入りし、おじさんとも顔見知りになり、買い食い、釣り竿の道具一式を買わされ、赤っぱや、青はや、鮒釣りまで指導をしてもらい、何曜日には、ここで待ち合わせ川釣りに出かける約束さえもできました。
四月はもう半ば過ぎ。桜も散れば、学校の行事も収まり、私も来月から転校生として、その門をくぐらなければならない筈。東京の学校でも、団体でするスポーツも、野球ですら手を出すことがなかった私。そんな一風変わった男の子が、どんな扱いをされるのか・・・彼らより私は一年留年してきたわけでそれほど不安はありませんでしたね。
つづく
2010年3月29日月曜日
転校生 第2回
この村には水道の設備が有りません。野猿峠の山裾に寄った林を見上げる一画にある農家です。裏に回ると、岩肌から流れ落ちる水をためるように岩を彫り込んだ小さな洞窟が唯一の水源地なのですね。
周りをセメントで固め、甕を据え柄杓が差しこまれていて、炊事、洗濯もそこで出来るのです。
家は、山裾ですが幾分高台になっていて、南口正面の門構えに寄りかかって下を見渡せます。桑畑の中央を農道がバス通まで幾分広く伸びていて、後は多摩丘陵にかこまれた寒村。一時期、新聞などで、無医村と取り上げられたことなどがありましたよ。
この環境に慣れるまで私はまだ今度の学校に登校してはいませんでした。先ず興味を持ったのは、水車小屋です。幅50、60センチ程の小さな小川に掛けられた水車。小屋の中は、臼が四つ据えてあり、臼の上に杵が横棒に垂直に吊るされてあるだけ。人がいるのを見たことがありません。でも、せき止めてある水路の水が流れだすと、小屋の中が、あの杵がガッタン、ガツタンと働きはじめるのです。
つづく
周りをセメントで固め、甕を据え柄杓が差しこまれていて、炊事、洗濯もそこで出来るのです。
家は、山裾ですが幾分高台になっていて、南口正面の門構えに寄りかかって下を見渡せます。桑畑の中央を農道がバス通まで幾分広く伸びていて、後は多摩丘陵にかこまれた寒村。一時期、新聞などで、無医村と取り上げられたことなどがありましたよ。
この環境に慣れるまで私はまだ今度の学校に登校してはいませんでした。先ず興味を持ったのは、水車小屋です。幅50、60センチ程の小さな小川に掛けられた水車。小屋の中は、臼が四つ据えてあり、臼の上に杵が横棒に垂直に吊るされてあるだけ。人がいるのを見たことがありません。でも、せき止めてある水路の水が流れだすと、小屋の中が、あの杵がガッタン、ガツタンと働きはじめるのです。
つづく
2010年3月27日土曜日
転校生 第1回

南多摩郡 柚木村に私が預けられることになりましたのが小学六年生のときでした。前の尋常小学校に在籍していた時、背が低く整列は先頭が決まりでした。当時も、小学校も中学校も、勿論義務教育です。でも私は進学出来なかった事情を抱えていたのです。 それは、結核。検査にひっかかって、多分、母の希望と私立中学に行かせたかった担任とのなんらかの話合いが 田舎の学校に六学年をもう一年留年させるということになったのです。
柚木村は殆どが桑畑です。農家は蚕糸 サンシ糸業を営み藁ぶき家の中の二階に、敷きわらの上に桑の葉を
敷きつめ、蚕を育てているのですね。初めての夜は、蚕が桑の葉を食べるその音に、なにを二階で飼っているのか。。。寝付けませんでした。
昼間人気のない時を見計らって覗いて見ることにしました。二階と云っても階段五、六段の棚、敷き藁が二十枚位を敷きつめたところに桑の葉が盛り上がるように敷きつめてあります。そこで、初めてみたのが白い親指位の芋虫、蚕、カイコです。
口の周りと云ううか、顔の部分が茶いろの皮で蔽うわれている。四回の脱皮をし成長し、絹糸を吐いて
繭を作るのだそうです。この村、畜蚕チクサンと機織りハタオリで 生業ナリワイの生活をしている寒村なのです。
そこの主人が、今度世話になる、北野の小学校の教頭先生です。家族に娘が三人、母親は、おかみさんと云う感じの人でした。
つづく
2010年3月22日月曜日
貴女への弔歌

たまたま新聞の訃報で知りました。
畑中更予さんに初めてお目にかかりましたのは、私がまだ三十歳頃、アテネフランセに通学していた頃、同じ教室の女性、Mさんがそのきっかけを作りました。その女性Mさんは中学の絵の教師。私より一つ二つ上の家柄を思わせる上品な、私にとって初めて知る年上の女でした。畑中更予さんのお話をするには、どうしてもここを通らなければなりません。
御存じのように、畑中ご夫妻はオペラ歌手でいらっしゃいます。お住まいは当時荻窪にありました。Mさんとも同じ中央線ですので、私とは何時も一緒に帰る仲。新宿は何時も二人で歩くpromenade、何を喋っても飽きず、休む店は、新宿風月堂、中村屋、長引く時はクラッシック喫茶でしたね。たまに、伝票が見当たらないとレジで言われました。「お隣の方がお支払いにならましたが。」
そんな年月のある日、私はMさんの家に招待されました。家の場所は、勿論夜遅くなればその前迄送るのですからよく承知しています。彼女の母の品定め、と云うか、年下の画学生みたいな若者が、何処まで、何を考え我が家の娘が、亦、情けない!と、思いがあった事と思います。
たまたまそのお屋敷で紹介されました。Mさんの家を半分お借りになっていらしゃる畑中更予夫人との出会いなのでした。
しなやかな肢体、大人の雰囲気をさりげなく身に付けた動作。矢張り何者かと思わせるものは、芸術家ならではあらわせないお人ですね。
そのころ、私達仲間、同年代で、毎月何らかの作品を持ち寄って一冊の文集と云うか、絵、詩などをまとめた小冊子を回覧していました。それに載せました私の詩を大変気に入ってもらいまして、そこで3人で、詩人の話で盛り上がり、それから、リルケの話に、彼女はため息をつくほどの熱のいれかたでした。私もリルケの窓は、絶品です。それに堀辰雄の日本語役は傑作だとおもいます。
そんな彼女のために「オッフェリヤ」と云う詩を書きました。どなたかにお渡ししたか、何回目かにあの広間で会ったは知りません。でも、その詩は読んでいただけました。 更予さんが、「この詩私に下さい。」と、云ってくれました。嬉しかったですね。
でも私、その詩はもう覚えていないのです。わずかに、記憶に残る、最後のフレーズはこんな風に書いたように思います。
更予さん、貴女への弔歌です。
「流れていけ テームズ川よ アナタの歌声が 消えるまで
歌声が アナタの歌声が 私の胸に流れるならば」
ノブ
2010年3月17日水曜日
トビエイの作品


私の通院中、ドクターW先生とある日のこんな遣り取りがありました。
聖路加病院 W先生
あの頃は検査続きで心身共に辛い時期でした。でもあの病棟で私はあのエイの写真を目にしたのです。どなたのエイの写真かは勿論知る筈がありませんでしたが、壁面に掛けられた額の中に遊泳するあの生き物エイに乗せられるように、癒されるという気持ちを貰ったのです。
きっと、他の患者さんの方々も同じような気持ちをお持ちになった方々がいらしゃると思います。海の中って、先生、いいですね。後に私はそれが先生の作品と知りました。
私は着物の古布で魚などをを制作しております。エイの作品も以前熱中して造りましたがまだ未公開なで、先生の写真とここにに乗せますね。お時間がありましたら、私共のブログをご覧頂けたらと勝手なブログでのでの御挨拶です。お写真、ありがとうございました。
2010年3月16日火曜日
朝倉響子さんの彫像
またNIKEのお話です。ナイキの靴の宣伝ではありません。
中央区には色々素敵な彫像があり、朝倉響子さんの彫像はそのひとつです。まだ娘が自転車の後ろに乗せられるころ、谷中の桜並木を走り、朝倉彫削館の中を遊び回りながら、父、文夫氏の猫の像ばかりの部屋で楽しんだ物でした。
その頃から父、朝倉文夫氏は二人姉妹の娘たち、彫刻家と舞台装置家 という芸術家一家と印象づけられていましたが。姉、響子さんの幾分絵画的な線をいかした、素敵な彫像が、家から目と鼻の先の散歩道にあるのです。
場所は、新川 住友海上の裏の一寸とした広場。周りを常緑樹に囲われ、お昼時はベンチにお弁当をひろげ、一人ひとりの時間を楽しむ、お仕事から開放された様子が 静けさの中に流れて行きます。皆さん お疲れ様です。暇人の年寄りは、トボトボとリバーサイドの日溜に場所をうつるのでした。
では、また!
2010年3月11日木曜日
蒼い林檎
勝実さま
貴方達と渋谷の道玄坂 丸山町のお婆さんが一人でいるミルクホールで、
何となく四、五人集まり「青山文学」という同人雑誌を作る編集会議をしましたね。
三号雑誌迄、だしましたっけ。
あの時、貴方が編集長。私は頼まれて一号誌にカットと詩を載せたようにも思いますが、あの「青山文学」は何処に行ったのでしょう。あの頃が、青春? 文学に熱中、モーツアルトのト短調シンフォニーに惹きこまれ、熱に浮かされ街を彷徨い歩いた時代。懐かしい!
この歳になり、昔から絵画一筋に、今も個展の案内をくれる、ある女性。
会うのが、複雑な思いで、こんな文章を送りました。
「ジョイスの、ブルックリンの港湾人足の喧騒、
エリオットの荒地第二部
テームズ河の界隈の下町
共通する卑猥さの中に人間関係を、グロテクスの血を流すことによって、
繋ぎとめようとする。
千葉に十五年住んでみて、卑猥さだけが、人間関係を保つ方法だ。」
と、書いたことがありましたね。
近頃、マチスの画集を開き、思い出すのですが、「戦後」の荒廃した中で、
当時こんなにも透明な世界があったのかと、ヨーロッパの文明に憧れました。
それなのに今、私の中にあのグロテクスな悼みも、マチスの色彩も、強く心に跳ね返る力で、迫って来ないのは何故だろうー。
蒼白なセザンヌの林檎だけが、昔と同じように気になるだけです。
嗚呼、滑稽なことに「人間は考える葦」にすぎないのだ。
カント哲学「我思う故にわれ在り」のパスカル的逆説ですね。
やよ蒼き魔女 恋しかり 冬薔薇
ノブ
2010年3月6日土曜日
船の守護神
隅田川に架かる中央大橋対岸は、新川から見て、右側に佃公園、左側に石川島播磨があります。この橋は斜張橋といって、吊橋ではありません。タワーから斜にケーブルを橋桁に留めてあるのです。
ザッキンの彫像は橋の三分の一の所の橋桁の上を幾分広げそこに安置されてます。メッセンジャーと呼ばれるフランスの帆船の守護をする女神。私見で知るところでは、ギリシャの女神NIKE「二ケ」ともいうようにも記憶します。でもこの像、上流に顔を向けて立ててありますので、上流から下ってくる遊覧船ではこの橋を振り向けない人も、いらっしゃるのではないかと、余計な心配をします。
三分の一の橋桁を選んだのは、多分船の水路を確保した結果と理解しました。でも橋を渡る人には女神か何かもわからない背中が見えるだけ。この像は船を守る守護神なので、人とは無縁な守護神かもしれませんね!
でもやはりザッキンといえば あの「絵具道具を運ぶゴッホ」ですね!
隅田川もパリのセイヌと友好関係を結んだ印のパリ市の紋章、東京からこの橋をわたる向う岸にパリ広場なる一画があるそうですよ。日本の川にもイルカが遊泳する時代ですから。
フランスセイヌも、ザッキの船の守護神に見守れて隅田川から帆船で、
ボン ヴォヤージュ!ノブ
2010年3月4日木曜日
2010年3月3日水曜日
2010年2月25日木曜日
2010年2月23日火曜日
春の珍事

その頃、女主人は肩と首を痛めて、毎週マッサージ師に来てもらっている状態でした。その青年は彼女の部屋の調度品、ピアノや譜面台、ヴァイオリンがいやでも目につきます。
そんなある日、彼は女主人に何かを持ち込みました。
青年 「これ、見てもらえませんか?」
見れば、ヴァイオリンケースです。
彼女 「どうしたの?」
青年 「今は楽器は弾いておりません。楽器は毎日弾いて音を出していないと駄目になるそうです。この楽器を宜しかったら使ってもらえませんか?」
女主人はアマチュアオーケストラのメンバーですが、まだ十年ちょっと。困惑と自分のヴァイオリンにやっと馴染んだところです。でも、その楽器への興味は隠せません。
やっと、口をひらきます。
彼女 「どんな楽器ですか?」
青年はケースを引き寄せ、お互い不安げに中を覗き、取り出しました。
彼女 「随分古いものね。」
青年 「これ、クレモナです。裏にサインもあります。宜しかったら、当分使ってもらえませんか?」
彼女 「遣わして戴けるのはうれしいけれど、この駒の高さを調節しなければ、私には無理よ。それでもよければ。」
話はなんとなくまとまってしまいました。
その日、土曜日のオケの練習に女主人は二つ楽器を提げ、颯爽とお出かけ。
オケのプロの話では、ものは、サインも本物、値段は二千万円位、あとは持つ人の気持ち次第、と云うことになりましたが・・・
この楽器、一年位使いましたね。その後は・・・・?
2010年2月18日木曜日
2010年2月17日水曜日
城之崎から伊根 四人旅 第2回 隠れ宿
2010年2月15日月曜日
城之崎から伊根 四人旅 第1回
みぞれの降る城之崎駅から雪とは覚悟をしていたものの、この雨。
情けない。空を見まわしても、荷物を提げ、傘をさしてバス通りを宿迄近いとはいえ、車を見つけるより仕方がありませんよね
駅前の藤村の石碑。雨を避けるように屋根に寄り、句碑に目を通しました。夏七月八日の涼しい朝曇りの便りの一節でした。
私達はうす曇る身体に沁入る北近畿タンゴ鉄道の観光ガイドブックに頼らずこの白樺派文人の集うこの城之崎の歴史と、私達の現代人との接点の共感を求め、「Middle of Nowhere」の多分に異邦人的な吾々の温泉旅行の出発点です。
やっと車を拾い、但馬旅館の玄関先。宿に入るには時間が早いので、荷物だけを預け、宿の名前の入った番傘風の傘をかり、 チラチラ雪になりそうな空。
バス通りは今、車の中から何となく覗きこんできたので、目指す方向は山裾の川の方と皆が漠然と歩いてしまうところが、このメンバーの 凄いところ。
矢張り、流れる川の両サイドに、いろいろな風情の旅館街です。
先ず驚かされるのは表通りと違い、表門から玄関先迄の奥行の深さですね。川に沿って歩いているので、お互い二組で、写真を撮り、勝手に横町に入り込んで、姿が見えなくなっても心配はしませんよね。
私は携帯での写真撮影なので、明暗もピンとも思うようには撮れません。川沿いの山裾は人も通らないけど寒さがきついですね。
少しは明るく、温かい人どうりのある雰囲気を恋して、中通を抜けようと角を曲がると通りの看板に、「文芸館通り」の文字。勿論、ここに入り志賀直哉の「城之崎にて」を若い頃読み、一度はここに行くことをこの年迄望んでいた街。当時の教養で見えなかった喪は何か、何が私をここまでひっぱてきたもとは。
中に入ろうと覗くと学生グル-プ達が揉めているのです。結局皆出てきてしまい、中に入ろうとするのは私達だけ。入場料大人六百円程。この値段で学生達が揉めていたのです。私も高いと感じます。東京ではこういう文化財の催しを、区、街が積極的に応援してますね。でも、ここは観光地、値段云々はやめときましょう。
ガラス越しに白樺派の文人、歌人、詩人の十六人位は覚えていても、その外は覚えがありませんね。この時代のひとは筆法、それぞれ個性的なうえ、魅力的です。
掛けてある軸も結構なのですが、下に並べられた小型本など、中身は無理でも、折に触れて館のパンフレトなどに紹介したら、と思いますが、私達が見回したところ・・・入場料は良くても、一つもパンフレトの類は見当たりませんでしたね。
、
作者名 失念
雪の城崎
あの子の 髪は溶ける沫雪
わがこころ
そんな気分で、外に出ました。宿の夕飯迄、一時間一寸あります。
お土産屋をのぞきながら、ふと、店の奥に紅い絨緞の甘味喫茶がありました。温かい飲み物の恋しく、靴を脱ぎ上がりこみました。のんべいの0さんが先ず、ゼンザイ と、叫けびます。後はみんな同じくです。
回りを見回すと、壁面に美人画の版画を作って居た頃のあの懐かしい夢二のデザインの小布、江戸裾の、だれの花嫁衣装か、などが吊るされてあります。ついこないだ、東京某デパートで夢二回顧展を見てきた私。これも黒船屋の店の御縁でしょうか。
宿に戻ろうと立ち上がりかけた時、うちのかみさんが、壁の一枚の美人画を指差し
「このモデルさん 日本人ではありませんね!着物の着付けが、左前!」
そう言えば、夢二はアメリカ サンフランシスコにいたそうでした。その時世話になってた家族のお孃さんと親しくなったと聞きますね。多分モデルは そのひと かもしれません。そんな話で解散しました。
結局其処の土産品を、持ち帰るお土産に買い漁りましたよ。
昏い横町で藪椿と目が合いましたので。一句つくりましたので、御笑覧。
昏ゆえ 藪の椿に 魅られけり
ノブ
2010年2月9日火曜日
子供達と夏休み

「子供達」と云える言葉は、そう、小学生の頃のことしか、考えられませんね。
夏休みの学校の宿題。絵の宿題はパパ、工作の宿題はママと、子供はもう勝手に自分達で決めている頃です。
其の頃は、夏の太陽のように、息子も娘も眩しく、私の夏休みでもあり、思い出す私の第二の青春でもありました。

晴海埠頭へいつもの二台のオンボロ自転車で、私たち三人は颯爽とでかけるのです。夏休みの街は、もう人の気配がありません。 車も、東京湾方面に行くようなトラックさえも見当たらないのです。素敵な、青天井の遊び場。鼻歌の一つも口から飛び出します。
すると、息子が勝手に、叫ぶように歌うのです。それも、当時大ブレークしたあの歌「ルビーの指輪」寺尾 聡の真似をして、ハミングしながら、ついには自転車二台を寄せ合って叫ぶ始末。
埠頭では、丁度、外国船が停泊していて荷あげ人足が、艀「ハシケ」を忙しそうに上り降りしてる港風景です。息子は画用紙を広げ、無心に手を動かし、しばらくして「これでどう?」と。岸壁と船、 働いてる人らしい人物。
私も大満足でベンチに足を伸ばし、西日に傾く太陽を、この紅の空が、何時までも過ぎ去らないようにと、眺めながら帰途につきました。
写真はあの頃息子が夏休みに書いた絵です。数十年経ってこれらの絵を見ると、子供の絵は素晴らしいと思わされます。
え?どうして夏休みの話?それは息子の剣道のお弟子さんが常夏のグアムから帰国して我が家に息子と立ち寄り、昔話に花が咲いたからでした。
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